Archive for the 徒爾綴 Category

2023年8月

8月 1st, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

遇いがたくして 今遇うことを得たり

 聞きがたくして すでに聞くことを得たり   教行信証 総序

 

数ヶ月前にご法事で伺ったお家でのことです。

そこでは仏事があると、決まって床の間に1935(昭和10)年に還浄されたお祖父様がお書きになったというお軸をお掛けになります。

普段と変わらぬお参り中の何気ない会話の中で、「おじいさんは写真が嫌いだと言って、この軸をわしやと思えと遺言されたんです」とお話しくださって、途端にお軸の見え方が変わりました。

 

そこには「極重悪人唯稱佛」と書かれていて、左上に小さく昭和乙亥(昭和10年のこと)とあり、左下に寳海院浮龜謹書とありました。

 

このお軸のエピソードをお聞きするまではあまりしっかり見ていなかったのでしょう。

途端に「寳海院浮龜」というお名前が「盲亀浮木」の譬えをおっしゃっているのではないかと思い至りました。

それは海底に住む目の見えない亀が、100年に1度浮かび上がって海上に顔を出すのですが、そのタイミングで偶然穴の空いた流木が漂ってきて、たまたま亀の頭がその穴から出るというお話です。これは私たちが人間として生まれること、そして仏法に遇うことがいかに稀かということの譬喩でお釈迦様がお話になったそうです。

 

出会っていても出会えておらず、聞いていても聞けていないのが私の常です。

このお軸にしても、以前からお見かけしているのに、その託された願いには全く気がついていなかったのです。

人のことでもお念仏の教えでも、聞いて理解しているようで、自己流の解釈で誤解し、見落としていることばかりです。

わかっているつもり、知っているつもりで自分の理解の範囲に落とし込んで、落とし込めなかった部分は気にも留めない私が、たまたまのご縁で法に遇い、気付いて(わかって)いなかった自分に出遇った時、「すまなんだなぁ極重悪人であった、気付けてよかった」と感じ、願いをかけ続けてくださる阿弥陀様の呼び声に応じてお念仏申す生活が始まるのだと思います。

 

だからこそ阿弥陀様から見た私、つまり「極重悪人」(正しいつもりなので罪深い)は阿弥陀様からの呼び声に応えて生きよ「唯稱佛」(ただ念仏を称えよ)と大きく書き示されたのだと思います。

さらに「わしやと思え」と言い遺して、お子さんやお孫さんに細かく説明なさらなかったのは、「自ら教えを聞いて確かめて、お念仏申してほしい」との呼びかけではないのかと受け止めました。

たくさんの方が私たちのところまで仏法を伝えようと阿弥陀様のお手伝いをしてくださっている事実があるのです。見ても聞いても、いつでも気が付かないのはわかっているつもりの私なのです。

 

 

2023年6月

6月 18th, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

よしあしの文字をもしらぬ人はみな まことの心なりけるを

善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり  親鸞聖人

 

親鸞聖人は「良し悪しの文字をも知らぬ人」は「まことの心」で、「善悪の字しりがお」つまり「何事もそれなりの見解をお持ちの方」は、「おおそらごと(大嘘言)」であるとおっしゃいます。私の常識とは全く逆ですが、実はここがとても大切だと思います。

私たちは日々多くの物事を見聞きし経験します。そのことで様々なことを自分なりに理解し、判断するようになります。

わかるとは「分ける」と書くように、何事も自分の理解の「枠」に分類することで、一応「解った」ことにしていくのです。ですから、その「枠」が多いと「答え」が増えたようでとても便利です。そして分類方法である「枠」が似ている人とは意見も合いますが、「枠」が異なる人とは合わないことがよくあります。

けれども、その「枠」は経験によって大きさや形が変化し更新されますので、人間関係も日々変化します。

だから「枠」は「惑」に通ずると教わりました。自分の判断、分類に迷いがないことを「惑」というのです。

道を間違っていても「迷っている」と気が付かない限り、立ち止まって地図を確かめることがないのと同じで、道を求め、教えに問い尋ねることを忘れるのです。

近年、何事もじっくり向き合って取り組んだり、何度も何度も考えをめぐらせたりすることよりも「わかりやすいかどうか」「できるかどうか」が重視される傾向にあるように思います。どれほど大切に長い間伝承されてきた御聖教(ご法話)でも儀式でも「難しいことはダメなこと」「やったことがない、できないものはダメなこと」なのです。「楽・わかりやすい」が重視され、大体主語は「私が」ではなく「みんなが」です。

人間の要請に応える宗教と人間そのものを明らかにする宗教との峻別が明瞭にならないと宗教が曖昧になる。とは廣瀬杲氏の言葉です。

仏教は人間そのものを明らかにする教えだからこそ、宗祖はこのご和讃をお詠みになったのだと思います。

比叡山でのご修行に励まれた努力や苦労も手柄にして誇り、納得した答えを掴む「枠」を生み、その「枠」に縛られる歩みにしかならない。そういうご自身の姿をごまかさずに受け止められた深い悲しみのご和讃なのでしょう。

そしてだからこそ法然上人に教えられた「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さんの呼び声に応えていく道に喜び、自分の善悪・好悪ではなく縁のあったこの道を大切に歩まれたのだと思います。

言わば、自ら囚われ苦しみ悩む「惑」からの衆生解放が法蔵菩薩の誓願(本願)でしょう。

なのに、どんなに枠を破られても必ず新たな枠(惑)を生み出す私なのです。

だからこそ、たとえ今の自分にわからなくても、目の前の人や物事と丁寧に向き合っていこうとする「しらぬ人」を忘れぬ歩みを「愚禿」と名告られたのではないかと思います。

2023年5月

5月 23rd, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

「信火内にあれば行煙外にあらわる」

 内に火があれば煙が外に出るにきまっておる。

暁烏 敏

 

先日、兵庫に住む両親や兄弟姉妹家族とキャンプをしました。テントで宿泊した翌朝、樹々の葉が擦れる音と鳥たちの鳴き声が響く中、朝早く起きる父と私は焚火をしながら色んな話をしました。

 

昔の朝の仕事は火をおこすことから始まったのだそうです。その言葉通り父は、新聞紙一枚と木片であっという間に火をつけてしまいます。中でも生活習慣の変化によって受けた恩恵と酬いの話は印象的でした。しっかり根を張る雑木林を無くして根の浅い売れる木ばかりを植えたことが影響して土砂災害が増え、花粉も多くなったことなど、父からすれば当たり前の事で、私からみたら驚くことを沢山教えてもらいました。

 

私の眼は電気やガスで簡単に火がおこれば便利でいいという発想です。それは「根元」より上の目立つところだけを見て、単純に便利だの快適だの、自分の都合で生きる眼です。

焚火を前に語る父の眼は、便利なことは結構だが、快適さや目先の都合ばかりを求め、自然と人が循環するような営み全体の大きな流れを見失った生活の危うさを見つめているようでした。

 

コロナで見直せたものもあれば、見失ったものもあるように思います。今や私達が簡便さを求める勢いは想像以上に加速しているように感じます。煩悩を原動力にしたものは回復しやすいが、煩悩に立ち向かおうと大切にしてきたものは回復し辛いとは訓覇浩先生のお言葉です。

仏事でもそれ以外のことでも「簡便さ」は快適で理想的なカタチとして目に映ります。しかし簡便であるということは手をかけないということです。手をかける必要がないということはとても楽ですが、同時に経験を失います。

仏教には「解学」と「行学」という言葉があります。聞いて学ぶことと同じくらい、行ずることがとても大切だと言われます。

教えを聞き、その教えを身に行じようとした時に初めて見えてくるものがあるのです。

学生の頃「ええからやってみろ」とよく言われたことを思い出します。いくら考えて理解を深めたとしても、やはり経験には敵わないのです。

 

末燈鈔(真宗聖典603p)では『文沙汰(ふみざた)して、賢々(さかさか)しき人のまいりたるをば、往生はいかがあらんずらん』と自分の頭で思い得た視座で色々なことを批評し、行ずることがない人の往生はどうだろうか、と法然上人が疑問視していらっしゃるお姿が記されています。

 

仏法聴聞して「わかった」「知り得た」と思った時、無意識のうちに敬意を失い、仏法(仏事)が分かった人間として、仏法(仏事)を自分の理屈で利用してしまうことがあります。
内で何を大切にしているかは外に出るものです。

自分の理解に教えを当てはめて納得するのではなく、お念仏申しつつ先達が私たちにまでお伝えくださったその願い(根元)が「聞こえてくるまで」一緒に聴聞しましょう。