Archive for the 徒爾綴 Category

2018年6月

6月 4th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

無明とは確信の感覚である。藤場 俊基 師

先日、日本大学アメリカンフットボール部の選手が危険なプレイをして、相手チームの選手に怪我をさせてしまった件が世間を騒がせています。
そんな中、怪我をさせてしまった選手が自らの非を認め、悔い、改めて関係者と相手選手に対して謝罪と事の真相を伝えようと会見を開きました。

 

日大選手が行ったことはとても悪質です。
ところが、会見での姿勢と誠実な答弁に共感したという方が大勢いらっしゃいました。
それはきっと、この件を日大だけの問題でなく、日本の縮図であるとご覧になったからではないでしょうか。

 

人は組織(周囲)から追い込まれると、自分の思いに蓋をしてしまう事があると思います。
そうして組織とそれに従う自分を肯定しつつ周りに合わせて、何事もなかった平穏な日常であるかのように振る舞おうとします。
ところが実際は自分を誤魔化している状態なので、上手く思考は定まらず、振り返れば何故そうなったのかも分からない様な失敗や間違い、軋轢が生じてしまう事があるのでしょう。
自分の生きる組織や環境によって、大なり小なり正しさの尺度が狂う事は誰にでも起こりうる事で、別に珍しい話ではないと思います。

 

とは言え、どの様な場所であっても絶対的な立場であったり、いつも周囲に忖度を迫るような圧力がある状況というのは大変危険だと思います。

なぜなら、心に沸き起こってきた不安や迷いと向き合わせずに、蓋をさせてしまう事があるからです。

 

以前先輩から本願とは輪ゴムのようなものだと教えていただきました。

輪ゴム本来の形を自力で周囲に合わせて引っ張り形を変えようとしても、手を離せば元に戻ります。
その輪ゴムの様に常に元の姿に戻ろうとするのが本願のはたらきであって、一生懸命頑張っているはずなのに何だか空しく満たされず不安なのは、私の根底から本願が、いのちの叫びが突いているのであって、元のいのちの形に戻ろうとするのだというお話でした。
何事も考える必要を感じないほどに上手く進み、日常の細事に流される中で、一旦立ち止まって確かめるという事がなくなったら要注意かもしれませんね。
もしかしたら、圧力をかける側か、受ける側になっているのかもしれません。

 

間違いないはずだと根拠のない確信を抱きつつ道を踏み外す私の有様を「無明」であると照らし出す確かな教え(道しるべ)によって、ようやく目印の無い人生に於いて、向かうべき方向を賜るのだと思います。

 

時に揺れ、時に迷いつつもその道しるべに導かれながら生きる道を「仏道」と呼ばれたのではないでしょうか。

多くの先達も歩まれた道です。
日常は忖度の連続です。
しかし、そんな中でも道しるべをたよりとして、自ら考え、勇気をもってこの道を往けと背中を押されているように感じています。

お念仏申しつつ、共にこの娑婆の縁尽きるまで参りましょう。

2018年5月

5月 19th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

人間の愚かさは

 何事に対しても答えを持っているということです。   宮城顗

ずいぶん前に、大阪市生野区・光德寺ご住職の高橋法信師に、聞くことの難しさと大切さをお伝えくださっているお言葉だと教えていただいたのが、この「今月のことば」です。

昨年にも同じような言葉を掲示いたしましたが、実は最近つくづく人は聞くという事が苦手な存在なのだと思うような経験をしました。

それは先日、追突事故に遭ったことがきっかけでした。
すぐに友人の勧める病院に行ってみましたが、なぜか診察もそこそこに、症状も決められてしまいました。

そこで転院しましたら、今度は丁寧に診察していただく事ができて、安心して通院しています。

宗教家・法律家・建築家・農家・政治家・医師・教師・整備士・鑑定士、世の中にはあらゆる専門家が存在し、あげればキリがないほどです。
なぜ専門家と言われるかといえば、専門外の方がいらっしゃるからですね。

でも、一度専門家になると自分の視点が専門的であるとは自覚しづらいものです。
誰しも自分の知識や考えは特殊ではなく、正しく常識的であると思い込む傾向があります。

その思い込みに気付けないと、違う立場や異なる意見を聞く事に耐えられなくなります。
すると忽ちその実力は思うように発揮されなくなり、否定と持論の押し付けに終始してしまいます。

これは私自身にも言える事で、自分の思いを脇へ置いて、相談者からの不安・要望をキチンと聞き、適切にお応えできているかと言えば、甚だ怪しいものです。

特に儀式などの専門的な話は、よくわからないと仰る方からすると、どのように相談したらいいのかもわからないという話をよく耳にします。
ですから専門的な経験や知識も大切ですが、まずは相談者と問題意識を共有しようとする事が大切なのではないかと思うのです。

しかし、時に私が相談者になる事もあります。
その時、相談者にも問題があると思い至りました。

実は相談者もまた、自分に納得のいく答えでないと拒絶する事があります。
つまり、相談しつつも既に期待する答えを握っている事があるのです。

お互い、本当に聞くという事が苦手なのです。
お互い、答えを握る「自分」の専門家なのです。
どちらにも偏らない教えに知らされないと、私の歪んだ本当の姿には気付けないのでしょうね。

 

2018年3月

3月 24th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

慈悲に聖道・浄土のかわりめあり

歎異抄 第4章

滋賀医科大学で「医の倫理合同講義」というものがあるとネットニュースで知りました。

年に1度、内部の医学生と外部の宗教者が互いの役割を知って「死生観」を深め、終末期の患者さんとの向き合い方を議論するのだそうです。
講師を務められたのは鹿児島市にある浄土真宗本願寺派の善福寺住職、長倉伯博さん(64)。長らく緩和ケア病棟で活動していらっしゃるのだとか。

記事にはこうあります。

『学生からは、もし自分が担当する患者だったらどう対処するかという観点で意見を出されたが、大半が口にしたのは医療側からの希望だった。すると、患者の言いたいことをひたすら聞く「傾聴」を実践している、ある僧侶がこう諭した。「この方は自分がどうなるかを知った上で苦しんでいる。そのとき、どうしたり、どう言ったりすれば共感してもらえるだろうか」
学生に対し、表面的な言葉や態度ではなく、患者の立場や気持ちに思いを寄せるよう促したのだ。』

記事以外の具体的な講義内容はわかりませんが、その記事から感じたのは、私は私の視点でしか誰とも関われないということです。

相手の視点に立とうとすることはあっても、完全には立てないということです。

以前、住職としてご遺族に対して、何とかさせていただかなければと思い、一生懸命中陰毎にお話し続けたことがありました。

満中陰を過ぎ、その後どう過ごしていらっしゃるのか気になって色々考えていた時に、とんでもない思い違いをしている事に気付かされました。

儀式を執行している私も勿論、寂しかったのですが、帰れば家族がおります。しかし、ご遺族は私が帰った後も、大切な人が亡くなられた場所で生活していらっしゃるわけです。

私の行為が善意によるものであったとしても、何かがわかって、何かができると思っていた自分の傲慢さに胸が痛かったことを覚えています。

寄り添うということの難しさと、住職として引っ越して来たこの町で、仏法を拠り所に共に生き、共に死ぬという事を深く考えさせられました。

『医療の目的は病気を治すことよりも、人生を深く味わう機会を患者に作ることに置くべきではないか。そう考えないと、人の死に直面したとき、医療には敗北しか残らない』とは講師の長倉さんの言葉です。

一人一人、その時その時、スカッとした正解の無い人生です。
では私自身はどのように生きたいのか。共に教えに聞き、考えていきたいと思います。