Archive for the 徒爾綴 Category

2023年4月 / 春季永代経のご案内

4月 19th, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴, 法要案内 | no comment »

ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり 蓮如上人御一代記聞書193

 

人との向き合い方と、仏法との向き合い方はよく似ているように感じています。

 

先日法座のあとで数名の参加者の方々と「宗祖のお言葉にこだわる」とか「お聖教に帰る」というような話をしていた時、ふと私は本当には宗祖のお言葉にも、お聖教にもこだわってはいないのではないかと思いました。

 

聴聞という言葉があります。「聴」は聞こうとして聴くことをいい「聞」は聞こえてくることをいうのだそうです。

私は「聴聞しましょう」と言いながら、実はそのどちらでもなく「訊」という聞き方をしていたのではないかと思い至りました。

それは「訊」にたずねるという意味があるように、どれほど聴聞を続けても何か自分に合う「答え」を期待して聞いているだけではないかと思ったのです。

つまり自分の理解の枠組があって、その枠内に収まる話かそうでないかという聞き方です。

 

「分かる」は「分ける」と書きますが、自分の中にいくつかある枠組の中に、宗祖の言葉もお聖教も勝手に分類して理解したことにするのです。

 

それで「宗祖の言葉」や「お聖教」にこだわっていると言えるでしょうか。

 

自分の理解、自分の考えにこだわり、自分の分類方法に納得しているに過ぎないのです。

またそれが誰かの言葉であれば「こういうことを言いたいのだろう」と自分の解釈で分かったような気になって、本当の意味では全く通じ合えていないということもあるはずです。

 

御経は釈尊の教えに出遇ったお弟子さん方によって綴られており、「如是我聞」(私はこのように聞きました)で始まります。

しかし言葉は教えや気持ち、考えなど大切なことを表現する一つの手段ではありますが、その全てを表現することはとても難しく、表現者の中でできるだけ近いもの、正確なものを慎重に選択します。

だからこそ受け手は時代背景や当時の文化を想像したり、多くの情報を頼りに正確に理解しようとするのです。伝えられた言葉とじっくりと腰を据えて対話するように向き合うのであって、自分の枠に落とし込んで理解しようとすることとは違うのだと思います。

 

日常の対話でも同じことです。真意がわからなかったり意見が違ったりしても、目や表情そしてその言葉の背景を想像して、根気よく相手の思いが聞こえてくるまで向き合うのです。

そのことで何が見えていて、何が見えていなかったのかを知ることを通して、相手との間を隔てていた自分の枠組が揺らぎ、互いの世界観が少しだけ溶け合うのでしょう。

 

真剣に聴くというのは、自分の枠組が崩れることで聞こえてくるものを大切にするのであって、決して教えや誰かを自分の解釈の枠に落とし込んで理解したことにしてはいけないのだと思います。

経験したり学んだりするほど枠組は増え、様々な理解が進むように感じます。難しいことですが、それが却って迷いを深めることがあると忘れてはならないのでしょうね。

まもなく永代経です。どなたでもお参りいただけます。

その時に自分の中で結論が出なくても、わからなくても、聞こえてくるまで一緒に聴聞しましょう。

 

◎4月30日(日)

午前9時30分勤行 法話2席

午後13時00分勤行 法話2席 いずれも本堂にて勤まります。

ご法話は 岐阜県揖斐郡 等光寺ご住職 石井 圭 師 です。

2023年2月

2月 10th, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

本当のものがわからないと 本当でないものを本当にする 安田理深

 

「今月のことば」は安田理深氏(1900-1982)の言葉です。

この言葉自体は有名ですが、

 

仏智がわからないと、それならやめておこうというわけにいかない。

今度は理性を仏智にする。こういうことが出てくるのではないか。

 

と続くことを、昨年大通寺の報恩講で宮部渡氏(門真市・西稱寺)がご紹介くださいました。

本当のもの「仏智」がわからないと、本当でないもの「理性(理知)」を本当にするという文脈です。

 

もう10年以上前に近隣の若手僧侶20数名で、公開講座形式で法座を開いて一緒に聴聞して語り合おうという集まりを作りました。代表者も代わりながら8年位続いたと思いますが、コロナ以降、実質的な活動は打ち切られています。

 

当初その活動に多くの賛同やご協力をいただけるものと思い、滋賀県米原市から福井県敦賀市まで(真宗大谷派長浜教区)のお寺約400ヶ寺に連名で開催趣旨と法座のご案内をお送りしました。ところが、全てが期待した反応ではありませんでした。

 

応援してくださる方も多く、実際に法座に足を運んでご懇志(寄付)をくださる方もいらっしゃいました。けれども思いもしなかった反応として「政治活動でも始めるのか」という批判めいたご意見も届いてきました。
それぞれ見ようとしている世界が異なるので予想外の意見が出るのは当たり前です。それは宗派内で政治的な活動をしている方々の中でもごく一部の方のご意見でしたが、公にした以上は自分たちの配慮が足りなかったのだと強く反省した記憶があります。

 

当時集まりを作った理由は、お寺という道場が年に数回の法要や法座だけでは勿体無いと思ったのです。出会っては別れ、得ては失い、常に変化する人生だからこそ、その意味や意義を共に教えに深く聞き直す営みを持ちたかったのです。

 

コロナ以降、世間では多くの物事が見直されており、お寺も例外ではありません。ただどれほど素晴らしい改革案のように思えても、もし仏智に導かれる謙虚さを見失うような事があれば、それは程なく「本当でないものを本当にしていた」と露呈してしまうことでしょう。

 

常日頃、世間を生きる私が頼りになると思っているものを見渡してみると、悲しい事に自分自身を含め、全ては移ろい失うものばかりです。いずれ当てが外れる事だけが確定しており、永遠に続くものがどこにも、そして誰にも存在しないのです。

 

そのような世間ではどれほど理性を磨いても、どうしても受け止められないような出来事に遭遇することもあります。そんな時でも自分を中心にして悩むことでますます迷いを深める私だからこそ、お念仏の教えに人生の意味をたずねるのです。

世間で行き詰まった時、教えという変わらぬ眼を通して人生を見直す道が開かれているという事が本当の「安心」だといえるのではないでしょうか。

2023年1月

1月 1st, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

自分は間違っていない  正しいことを言っている

というときほど危ないのです。  一楽 真 氏

 

「これからのお寺は大丈夫か」よく尋ねられる質問です。

正直わかりません。

また「寺院」という共同体が消滅する可能性も否定できません。
ただ「仏様のはたらき」は決してなくならないと思います。

 

随分前から納骨や本堂でのお葬儀について相談させていただいてきました。
納骨志等を将来の修復整備に向けて、門徒会計に積み立てる計画です。
ただこれは伽藍の維持管理の一助となるだけで、問題はもっと他にもあるように思います。

 

寺の存続が大切か、お念仏の教えを通して集い語る人の歩みが大切か。
学校に例えるなら、学校運営が大切か、学問を通して営まれる先生や生徒、関係者一同の歩みが大切かというようなことです。

どちらも大切ではないとは言い切れませんが、一歩間違えると進むべき道を見失いかねません。

「願い」を確かめずに、テクニックや方法論に走ると、必ず誰かが置いてけぼりにされるのだと思います。

 

これは国家でも、会社でも、家庭でも、どんな共同体にも言えることだと思います。

みんながどのような場所にしていきたいのかという願いを共有することがまず先だと思います。

お寺でいえば、「願い」や、そのもととなる教えを表現する「法座」や「儀式」を大切にするのであって、住職や坊守など特定の「誰か」を中心にするのがお寺ではないのです。

その共同体で声の大きい「誰か」が認められると、必ず意見の違う誰かが傷つき、置いてけぼりにされ、それ以上そこには居辛くなるのです。
それが本当に創立時に願われた姿だったのでしょうか。

 

お寺のことでも地域のことでも、会社や学校のことでも、大切に守られてきた共同体を壊すのは、必ずしもそれに不慣れな方だけではないでしょう。

もちろん軽率に変化させたり辞めてしまうのは論外ですが、「伝統を心得た」という確信ある在り方にも存続を危ぶませる作用があるのではないでしょうか。
もし共同体において誰かが居辛くなるようなことがあるのなら、それは共同体創立の「願い」に立ち返って見直すべきタイミングでしょう。

 

どれほど教えを聞いていても、衣を着て儀式を執行していても、どれほど一生懸命に携わっていたとしても、「これでよし」と我が納得に安住する姿は、考えることを辞めてしまっているのと大差ありません。
一生涯教えに導かれなければ、「正しい自分」を迷信し、愚かな他者、間違いだらけの社会を自分の眼前に生み出し、正しいはずなのに、互いに苦しまなければならなくなってしまいます。

だからこそ本年もお念仏申し、教えを聞き、一緒に言葉にすることで考えさせてください。どうぞよろしくお願いいたします。