Archive for the コトバ Category

2023年2月

2月 10th, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

本当のものがわからないと 本当でないものを本当にする 安田理深

 

「今月のことば」は安田理深氏(1900-1982)の言葉です。

この言葉自体は有名ですが、

 

仏智がわからないと、それならやめておこうというわけにいかない。

今度は理性を仏智にする。こういうことが出てくるのではないか。

 

と続くことを、昨年大通寺の報恩講で宮部渡氏(門真市・西稱寺)がご紹介くださいました。

本当のもの「仏智」がわからないと、本当でないもの「理性(理知)」を本当にするという文脈です。

 

もう10年以上前に近隣の若手僧侶20数名で、公開講座形式で法座を開いて一緒に聴聞して語り合おうという集まりを作りました。代表者も代わりながら8年位続いたと思いますが、コロナ以降、実質的な活動は打ち切られています。

 

当初その活動に多くの賛同やご協力をいただけるものと思い、滋賀県米原市から福井県敦賀市まで(真宗大谷派長浜教区)のお寺約400ヶ寺に連名で開催趣旨と法座のご案内をお送りしました。ところが、全てが期待した反応ではありませんでした。

 

応援してくださる方も多く、実際に法座に足を運んでご懇志(寄付)をくださる方もいらっしゃいました。けれども思いもしなかった反応として「政治活動でも始めるのか」という批判めいたご意見も届いてきました。
それぞれ見ようとしている世界が異なるので予想外の意見が出るのは当たり前です。それは宗派内で政治的な活動をしている方々の中でもごく一部の方のご意見でしたが、公にした以上は自分たちの配慮が足りなかったのだと強く反省した記憶があります。

 

当時集まりを作った理由は、お寺という道場が年に数回の法要や法座だけでは勿体無いと思ったのです。出会っては別れ、得ては失い、常に変化する人生だからこそ、その意味や意義を共に教えに深く聞き直す営みを持ちたかったのです。

 

コロナ以降、世間では多くの物事が見直されており、お寺も例外ではありません。ただどれほど素晴らしい改革案のように思えても、もし仏智に導かれる謙虚さを見失うような事があれば、それは程なく「本当でないものを本当にしていた」と露呈してしまうことでしょう。

 

常日頃、世間を生きる私が頼りになると思っているものを見渡してみると、悲しい事に自分自身を含め、全ては移ろい失うものばかりです。いずれ当てが外れる事だけが確定しており、永遠に続くものがどこにも、そして誰にも存在しないのです。

 

そのような世間ではどれほど理性を磨いても、どうしても受け止められないような出来事に遭遇することもあります。そんな時でも自分を中心にして悩むことでますます迷いを深める私だからこそ、お念仏の教えに人生の意味をたずねるのです。

世間で行き詰まった時、教えという変わらぬ眼を通して人生を見直す道が開かれているという事が本当の「安心」だといえるのではないでしょうか。

2023年1月

1月 1st, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

自分は間違っていない  正しいことを言っている

というときほど危ないのです。  一楽 真 氏

 

「これからのお寺は大丈夫か」よく尋ねられる質問です。

正直わかりません。

また「寺院」という共同体が消滅する可能性も否定できません。
ただ「仏様のはたらき」は決してなくならないと思います。

 

随分前から納骨や本堂でのお葬儀について相談させていただいてきました。
納骨志等を将来の修復整備に向けて、門徒会計に積み立てる計画です。
ただこれは伽藍の維持管理の一助となるだけで、問題はもっと他にもあるように思います。

 

寺の存続が大切か、お念仏の教えを通して集い語る人の歩みが大切か。
学校に例えるなら、学校運営が大切か、学問を通して営まれる先生や生徒、関係者一同の歩みが大切かというようなことです。

どちらも大切ではないとは言い切れませんが、一歩間違えると進むべき道を見失いかねません。

「願い」を確かめずに、テクニックや方法論に走ると、必ず誰かが置いてけぼりにされるのだと思います。

 

これは国家でも、会社でも、家庭でも、どんな共同体にも言えることだと思います。

みんながどのような場所にしていきたいのかという願いを共有することがまず先だと思います。

お寺でいえば、「願い」や、そのもととなる教えを表現する「法座」や「儀式」を大切にするのであって、住職や坊守など特定の「誰か」を中心にするのがお寺ではないのです。

その共同体で声の大きい「誰か」が認められると、必ず意見の違う誰かが傷つき、置いてけぼりにされ、それ以上そこには居辛くなるのです。
それが本当に創立時に願われた姿だったのでしょうか。

 

お寺のことでも地域のことでも、会社や学校のことでも、大切に守られてきた共同体を壊すのは、必ずしもそれに不慣れな方だけではないでしょう。

もちろん軽率に変化させたり辞めてしまうのは論外ですが、「伝統を心得た」という確信ある在り方にも存続を危ぶませる作用があるのではないでしょうか。
もし共同体において誰かが居辛くなるようなことがあるのなら、それは共同体創立の「願い」に立ち返って見直すべきタイミングでしょう。

 

どれほど教えを聞いていても、衣を着て儀式を執行していても、どれほど一生懸命に携わっていたとしても、「これでよし」と我が納得に安住する姿は、考えることを辞めてしまっているのと大差ありません。
一生涯教えに導かれなければ、「正しい自分」を迷信し、愚かな他者、間違いだらけの社会を自分の眼前に生み出し、正しいはずなのに、互いに苦しまなければならなくなってしまいます。

だからこそ本年もお念仏申し、教えを聞き、一緒に言葉にすることで考えさせてください。どうぞよろしくお願いいたします。

2022年12月

12月 12th, 2022 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

人は死んでも、その人の影響は死なない

Martin Luther King Jr.

 

今年も多くの方をお見送りしました。

生前のお付き合いが多ければ多いほど、様々な想いが去来します。

 

遺された方々がおいでになっていても、時折「みんな逝ってしもた。寂しなったわ」と言う言葉をお聞きします。

人と人とが出会うということは、様々な影響を与え合います。

互いに気分のいいこともあればよくないこともあります。

でもそれは出会ったその人としか共有できない思い出でもあり、同じ時を過ごした者でしか共有できない感覚もあるのだと思います。

 

私もこのお寺に来て17年が経とうとしています。

お一人おひとり、想い出が積み重なってきています。

仏事に限らず一緒に過ごした時間が積み重なって、故人となられても折に触れ思い起こします。そしてその印象は一定のものではなく、新たに気付かされることもあります。

人が出会うというのは想像以上に重く、生きている限りいつまでもその影響を受け続けていくのでしょう。

 

お寺に関することでもそうです。他所から来た私たちには全くわからなかった仏事や仏事に対する伝統的な関わり方について、時に厳しく、時に優しく教えていただき、わけがわからないままにも経験し、影響を受けて徐々に共有させていただけるようになってきたという感じがしています。

 

ところがコロナの煽りで縮小(中断)になっていることも少なくありません。

でも規模縮小にて執行される報恩講などの伝統的な仏事や行事は、実は住職や坊守にとっても「楽」なのです。

それもそのはず。大切なこととして伝わってきているものは、たいてい準備の段階から私たちの日常生活のリズムを狂わせるからです。

 

おそらくそのようにして自己都合を優先して、人生がいつまでも続くと信じて「生活のため」に勤しむ私を、日常生活から一旦立ち止まらせるのが狙いなのではないでしょうか。

必ず突然崩壊していく日常の事実を仏前にて立ち止まらせて、考える時間を与えられているのだと思います。

 

コロナ対策が徐々に見えてきた今、仏事や行事の見直しも必要だとは思いますが、先に歩まれた方々が私にまで伝えてくださった願いを考えることは、先達への敬意と、未来の方への責任でもある思います。

 

自己都合によって出てくる「結論(果)」はお伝えくださった影響を消し去りかねないものが多く、私を出発点にした結論の理非は後から気が付くことばかりです。

むしろ現在にまでお伝えくださった「因(もと)」を訪ねることで、ようやくその願いが見え、何をどのように伝えていくのかを考えることもできるのだと思います。それが因の心(恩)を受けとめた姿であり、「影響が死んでいない」姿だと言えるのではないかと思います。