2021年9月

行き詰まるのは、自我の思いだけである。清沢満之

 

「ここ(の町)にきて後悔してへんか心配なんや」

ある門徒さんに言われた言葉です。

 

大阪で就職したばかりの頃は、教えを語る事もなければ、法要儀式も全くわかっておらず、色んな人に尋ね回り、まとめるような事を7年程繰り返していました。

そんな中ご縁があってこちらに入寺した15年程前、本山の某部署に来ないかとのお誘いを受けたことがあります。

 

しかし当時は長浜に転居したばかりで、長浜別院に就職したばかりという状況でもありました。それでも「行きたい」という気持ちと「入寺したばかりで、門徒さんやお寺と離れてもいいのか」という思いで大変迷いました。

 

困った挙句、役員会で「行きたいという事」「帰ってくるのは定年後になるという事」などわかる範囲の事を全て話して相談しましたが、「ごえんさん。臨時の門徒総会開くまでもないわ。行かんといてくれ」との結論でした。

 

私も家族と腹を括って入寺したように、ご門徒さんも腹を括ってお迎えくださったに違いありません。この結論は尊重しないといけないと考え、こちらに残ることにしました。

 

それでも当時はその決断に揺れました。

何回も何回も思い起こしては振り払い、思い起こしては自分に言い聞かせていました。

 

同じ頃、今までなかった「月参り」を始めてくださいました。
一軒一軒お参りに伺ううちに、お一人おひとりの顔が見え、色んなお話をするようになり、だんだんとこの場で自分のしなければならない事は何か、できる事は何かと考えさせられ、それがしたい事になって行ったのです。

 

冒頭の言葉は、当時を振り返り「門徒全体のために、ごえんさんの人生を振り回した」という思いが背景にあったのだそうです。

 

しかし縁あって人が出会えば、良い悪いではなく、必ず影響を受けます。
それは都合次第で振り回されているとも、お育ていただいているともどちらにも取れるのです。
相手だけでなく、受け取り手の問題でもあります。
私にもここに来なければ出会えなかった、あるいは悩まなかったであろう人間関係や物事があります。
でも、ここに来なければ今の私はなく、来なかった私などいないのです。

 

海外や国内各地で生活してきましたが、都合で見れば何とでも印象の変わる人間関係や物事は、所詮自分勝手にその時の価値感で一喜一憂しているに過ぎないのだと思います。

 

色々ありますが、いつでも私のいる場所が私の生きる現場です。
ご門徒の皆さんが真剣に関わってくださって、共に悩み喜んでくださる事で、これまで継続して来られた事に感謝しています。
これからもお念仏の教えを頼りに、この念仏道場で一緒に歩んでまいりたいと考えています。

This entry was posted on 水曜日, 9月 15th, 2021 at 17:35 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

Leave a Reply