2021年12月

私はすぐ私以外のものになりたがって自身を忘れる
あなたはあなた自身であればよい        平野修

 

今月のことばは、「あなたらしく」という励ましの意味だけではないような気がします。

 

私は両親と8歳離れた兄、そして4歳離れた姉の5人家族の末っ子でした。

兄は私が小学生のうちに家を出たので、幼い私は姉から受ける影響が大きかったように思います。

 

いつ頃だったのかは曖昧ですが、思春期でしょう。

ご多聞に漏れず姉がひどく父を避ける時期がありました。

自分も成長と共に両親と距離をとるような事はありましたが、当時は姉の避け方にとても驚いたのが印象に残っています。

その後私は渡米したので、その頃から自宅は「帰省先」となり、父と姉の印象はそのまま強く残りました。

 

そんな私も10年足らずで結婚をし、娘を授かり初めて親となりました。

「賜った立場によって人は育てられる」と教えられますが、とにかくこの家庭で頼り甲斐のある「夫・父親」にならなければならないと背伸びをしていた様に思います。

 

もう随分前のことですが、娘とちょっとしたことで衝突したことがあり、その時彼女が「お父さんは、お母さんのことは大好きでも、私のことはそうでもないんでしょ」と訴えたのです。

 

大変驚きましたが、彼女の話をよくよく聞いているうちに、どうやら私は『私以外のものになろうとして』いたのではないかと思い至りました。

 

必ず訪れるであろう時に備え、彼女が嫌な思いをしないようにと、小学校に上がる頃にはお風呂は連れ合いに頼み、求められた時以外は必要以上にベタベタしないようにして、厳しい事も言いますが、辛い時には話を聞き、至らずともそれなりにきちんとした父親であろうとしていました。

 

でもそれは、実は傷つく事を恐れて理想の父親像を演じているのであって、彼女自身と向き合っているのではなく、彼女を通して自分の思いを実現しようとしていたに過ぎなかったのです。

それに気付いた時はかなりショックでした。

演じ続ける事で自分の弱さを心の奥底に仕舞い込んで『自身を忘れ』た時、知らないうちに目の前の人を傷つけてしまう事があるのです。

 

言わせてしまった事がとても切なかったのですが、言ってくれた事が有難くもありました。

 

「経教はこれを喩うるに鏡の如し」と教えられます。

お経やお念仏の教えから照らされることで初めて見える私の影もありますが、縁ある誰かとの対話の末に開かれる景色は、それもまた私の姿に気付かせてくれる大切な教え(はたらき)だと受け止めるのは言い過ぎでしょうか。

 

対話できる時もあれば、そうでない時もありますが、「自分」とは自分の思う自分ばかりではないはずです。誰の、どのような言葉も大切に「聞く(考える)」事を大切にしたいものですね。

This entry was posted on 月曜日, 12月 13th, 2021 at 18:50 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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