2022年8月

憶念とは、忘れていたものを思い出すという意味 宮城顗

 

本山や別院では7月に盂蘭盆会をお勤めしますが、関西では一般的に8月がお盆の季節です。

この時期はいつも以上にバタバタと境内を出入りします。
ふと参道横の前栽に目をやると、百日紅が綺麗に咲いています。実はこの百日紅を見るたび、先月17回忌を一緒にお勤めいただいた先代住職のことを思い起こします。

ご存知の通り、先代住職と私たち家族は血の繋がりはなく、面識もありませんでした。

先代住職は若い頃、日赤の看護部長を勤めながら住職として頑張って来たようです。
退職後20年経過してもかなりしっかりしており、物事もはっきりと言う方でした。
また厳しい側面もありましたが、情に篤く、芯の通った住職でもありました。

あの頃は、後を継ぐのはもちろんですが、「先ずは家族にならなければ」と思っていたことを思い出します。
日頃から食事は一緒にして、実の親と同じくらいモノを言い、実の親以上に気をつかわなければいけないと思っていました。

それでも「近くに寄れば影が見える」というように、一つ屋根の下に住んでいると色々とあるものです。お互い思うようにはいかんのです。

そんなある日「今年は百日紅の花が見られんな」と言うのです。

私は「百日紅ってどれ?気候が変なの?」と、その意味がわかっておりませんでした。
でも先代住職はその言葉通り、百日紅が咲く前の6月に還浄いたしました。

後から遺品整理をしたり、ふとした時に、故人の思いに出会い直したりすることがよくあります。
気が付いた時にはもういないのです。大切なことはなぜかいつも後から気が付くのです。
何年も経ってから気がついたことも沢山あります。

お互いに煩悩の火を燃やしあっている時には相手に焼かれまいとして、自分の努力や正しさをわかってもらうのに必死です。だから「気をつかう」といいながら、相手の考えや願いを汲み取るのは後回しになりがちです。
それは悲しいことに、縁ある方々から今いただいているものや、以前からいただいてきたものも自分の善悪・好悪・損得で受け止め違いすることが多いあり方です。
その証拠に、相手が煩悩の火を消してくださった途端に、自分本位で浅はかであった、情けない自分の姿と向き合わされます。

自分の感覚を優先してしまう私は、情けない姿に向き合わされたことを傲慢にも「気付いた」と錯覚しがちです。
故人がいてくださったお陰なのです。
この気付きもいただきものなのです。

そういう意味では故人を縁に勤める儀式や法座を縁に忙しい日常から一旦足を止めて、故人との日々を憶念し、教えを通して損得・好悪に揺れる私の眼を、齷齪する私の足元を再確認する時間をいただき続ける営みがとても大切だと思います。

This entry was posted on 日曜日, 8月 21st, 2022 at 18:56 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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