2012年8月

私は如来救済のお手本にはなれないが、如来救済の見本にはなれる

高光大船

これは『高光大船の世界』の冒頭から引用したものです。

  本山の住職修習を受けた時に、総代さんと新住職が向かい合って抱負を語るという機会がありました。皆さん立派な抱負をお持ちでした。

私も自分なりに立派な住職像が無いわけではなかったのですが、理想と現実との乖離を感じてしまい、どうにもしっくりこなくて何を話せばいいのかまとまらず、思わず『私は“住職”としてどうあるべきかわからないし、何ができるか自信もありません。でも、敢えて抱負らしい事を言えば、周りの誰よりも聴聞したいです。そして周囲の方が仏法を喜んでいる自分に巻き込まれてくれはったら嬉しいです。』というような事を言ったのを覚えています。変な汗を一杯かいてしまい、恐る恐る総代さんの方に目をやると、いつも通りただニコニコとして聞いておられ、小声で一言『そんでええのや』とおっしゃったのが印象的でした。

その数ヵ月後、今月の言葉に出遇い、とても嬉しくなったのを覚えています。

 私が如来救済のお手本であるならば、ご門徒さんには私に倣っていただく必要があります。しかし、私は如来救済の見本なのです。不適切な言い方かもしれませんが、いわばsampleです。

 周囲の方に『寺に参って下さい』『お念仏申しましょう』『法事を勤めましょう』等々本来するべき事、真宗門徒としてあるべき姿を伝える事も大切だとは思いますが、先ずもって私が救われる身となっていく事が要(かなめ)であると受け止めました。自分が何も感じていない事を人には勧められないのではないかと思います。実際、そこからしか何も始まらないのではないかとも思っています。

  私がはからってどうにかできる質のモノなどたかが知れているのだと思いますし、見方を変えればどうにもなっていない場合もある。またはからうあまり、仏法から離れて行ってしまい、自分中心の我欲にまみれ、人も自分も傷つけてしまう事はよくあります。自分自身が思うようにならないのに、他人の思考・信仰をどうにかしようなどというのは思い上がりかもしれないと思うのです。もちろん、一緒に念仏してほしいし、聴聞してほしいのは本音です。でも、押し付けがましくなりたくないのです。

 私は住職ですが、夫であり父親でもあります。また社会人として、色んな顔・立場・繋がりの中に居ます。そんな中、あらゆる関わりの中でひとりの人間として、念仏者として泥臭く歩む私を、私のままに生き切って死んでいく事が大切ではないかと思います。

  …などと言うと聞こえは良さそうなのですが、そうすることで、はからずも同じく念仏をしてくださる方が出てきて下さるのかもしれないと、またはからっているのです。

 やはり、どこまでいっても真実は私の方ではなく、阿弥陀さん(法)の方にあるのだとつくづく思わされます。

 そういう意味で、いよいよこの言葉が単なる立派なご住職(僧侶)の啓発的なそれではなく、高光大船師の歩みの先に実感として感じられた言葉であったのだと思います。

This entry was posted on 火曜日, 8月 21st, 2012 at 14:24 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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