2014年4月

みんな、生きるのに必死だから、恨む誰かを探している。

八重の桜   

インパクトのある言葉だなぁと、今更ながらに思います。

私は大河ドラマに限らず、ドラマはあまり観ません。観ようと思っても予定通りに観ることができないことの方が多いからです。

あの「半沢直樹」も門徒さんにブルーレイをいただいて、休み前に徹夜で観ました。(笑)

さて、冒頭の言葉ですがツイッターだったかフェイスブックだったかで、どなたかがこの言葉だけを呟くように紹介されていました。劇中のセリフのようです。

どうも気になったので書き留めておいたのですが、実はこの言葉、そのまま私たちの姿を言い当てている言葉ではないのかと、最近になって急に頷くことができました。

皆さんも覚えておられると思いますが、震災後さかんに「絆」という言葉を耳にしました。

人は一人では生きていけない。そんなこと誰でも知っています。ですから、「絆」だけでなく、小さい頃から「共に」とか「仲間を大切に」とかと道徳の時間などで教えられます。

結果、私たちは全ての人々と分け隔てなく「共に仲間として」生きることが、とても道徳的で美しい姿であると知ります。そして、仮にそれがきれいごとだとか、建前だとかと言われても、ちゃんと知っているのですから、当然自分は心の持ち方、意識ひとつで道徳的に正しく生きることができると考えています。

しかし、何故でしょう。例えば道徳的で正しいはずの「仲間」をつくろうとする行為が、必ず「仲間外れ」をつくりだします…。道徳的ではありませんね。おかしな話です。

さて、実はそんな道徳的観念を持ち合わせていて、理性的な私が大好きな言葉があります。それは、「ねばならぬ」や「~べき」です。それは道徳的「正しさ」から発せられる言葉です。

学校でもどこでも、「正しく」あろうとする姿というのは、評価されるべき美しい姿であると教えられます。私もそう思います。悪いことではないと思います。

しかしだからこそ私たちは、知らず知らずのウチに正しい自分と間違っている他者をつくりだし、相手と私の間に何らかの境界線を引いてしまうということはないでしょうか。

意識のなかで境界線を引くことで、必然的に内側と外側をつくり、内側には正しい私が、外側には私と意見の合わない誤った考えの人、つまり正しくない(道徳的でない)人がいると仮定し、自分の基準で人を分類し、レッテルを貼ってはいないでしょうか。

そして、ついにはそういう種類の人が実存するかのように感じ、嫌悪感を抱くことも…。

まさか善良な一市民であるはずの私が、自分だけの基準によって、人を善人と悪人とに振り分けるような差別的な視野を持ち、恨んだり蔑んだりしているなどとは想像もできません。

正しさ」は素晴らしいのですが、相手がどうであれ、自分の側から見た正しさと誤りによって勝手に線引きをするわけですから、正しさを自分の側に引き寄せてしまいがちです。

しかも私の思う正しさを絶対化してしまうので、誰かに「ねばならぬ」や「~べき」と言う時、無意識のウチに、「私の思う正しさ」に「こうあってほしい」が付け加えられます。

そのため「分からん人はしょうがない」として我慢してやるか、あるいは「ダメなやつだ」と見捨てることによって、何があっても相手が悪くて自分が正しいのだと突き進んでしまいます。なぜなら、意見の違う相手は善であってはならないのです。必ず悪であってほしくて、自分は正しい。さらに自分の引いた境界線の内側にいる人は、私に同意する人であってほしいのです。

これが「私の思う正しさ」に「こうあってほしい」が付け加えられた姿です。

どうでしょうか。みなさんは身に覚えがありませんか。

果たしてその状況でいて、自分がどのような行動をとったのかを省みたり、それによってどのような影響があったのかを客観的に顧みたりすることができていると言えるでしょうか。

おそらく、もう既に大切な何かを見失っているのではないかと思います。

「私正しさ」が強くて、自分の正しさを誰かに取り上げられることが怖くて、私と意見が違うと容易に認めることができないのです。そしてまた境界線を引き、悲しいけれど外側の誰かを恨んだり蔑んだりする感情が私の中から起こってきてしまう。

しかもそれによって、正しい私とそうでない誰かとの差異をさらに強く意識する。負の連鎖です。

教えに照らされ、見せられた私の姿は、自分では正しいつもりでいても、決して誉めたたえられるような姿ではありませんでした。そこに救いはないでしょう。ましてや縁ある方々と共に生きるということもないでしょう。

みんな、生きるのに必死だから、恨む誰かを探している。

生きるのに必死で、自分本位になってしまい、気付けばまるで恨む誰かを探しているようなあり方になってしまいます。

そんな私自身の悲しいあり方に気付いたとき、ようやく人は本当に共に「生きる」ということに真向かいになることができるのかもしれません。

それが宗教を求める心、つまり求道の始まりだといえるのだと思います。

This entry was posted on 金曜日, 4月 11th, 2014 at 08:47 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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