2016年12月

今にして 知りて悲しむ 父母(ちちはは)が 

われにしましし その片おもひ

 『冬木原』窪田空穂(くぼたうつぼ)

今月のことばは、11月の報恩講で、相撲町・浄願寺の澤面宣了(さわもせんりょう)師がご紹介くださった短歌です。

 

毎年この時期は、最も体調管理に気を使います。

長源寺だけでなく、他のお寺やお家で、たくさんの仏事にお参りをさせていただく時期でもあるからです。

 

そんなある日、母親から「重い荷物を運んで欲しい」との連絡がありました。

 

兄も大阪へ通勤していることから、法要の多いこの時期は帰って来れないこともしばしばです。母が近くに住む私を頼ってくるのも無理のないことなのです。

 

数日前に連れ合いからそのことを聞いてはいたのですが、忙しいのを理由に連絡も後回しになってしまっていました。

 

もうまもなく実家のあるお寺でも報恩講がお勤まりになります。
母としても早くしてほしかったのでしょう。
返事のない私に痺れを切らし、連絡してきてくれたのです。

 

「ごめん。今忙しいねん。」

 

そう言い終わるやいなや、言い訳するかのように、矢継ぎ早に自分の都合だけを母に告げている私の脳裏に、澤面師の法話がよぎります。

 

「親の恩 歯が抜けてから 噛みしめる」
君は、自分一人で大きくなって今まで生きて来たのかい。

 

両親から無償の愛情を注いでもらって来たのに、いつの間にか、今の自分がある(果)、そのことのいわれ(因)をたずねることもなく、自分の都合や自分ができること(手柄・能力)しか見えなくなっていました。

 

きっと家族や同僚、誰に対してもそうなってしまっているのだと思います。
本当に悲しいあり方です。
まさに「させていただく」のではなく、「してあげる」という慢心を育ててきただけの、恩報(し)らずな私でした。

 

これこそが、何でもよくわかっているつもりの、確信に満ちた「無明」という惑いのすがたなのでしょう。

ちゃんとしようと思い、きちんとしようとしているつもりでいても、行に迷い、信に惑う有様です。
何をやっていてもこの体たらくなんですね。

 

思わず溢れた「ごめんなさい」を胸に、急ぎ両親の元へと車を走らせました。

This entry was posted on 木曜日, 12月 1st, 2016 at 16:06 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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