2025年1月 徒爾綴
最終更新:2025年04月24日
昨年1月1日、未曾有の災害が能登地方を襲いました。
まさか1月1日にとは、誰もが思ったことでしょう。
まだまだ復興が追いついていないようです。
被災された方々にお見舞い申し上げますとともに、ご縁のある皆様におかれましては、息の永い支援のご協力をお願い申しあげます。
さて、今月の言葉は 「遇いがたくして今遇うことを得たり 聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」 という教行信証総序にある言葉で、宗祖親鸞聖人が仏法に出遇えた慶びを表現していらっしゃる言葉です。
この時の「遇う」は、人や物事の真意に遇えたことを意味します。また「聞く」は真剣に聴いた先に聞こえてきたことを言い、お聖教の言葉と向き合い続けた先にようやく聞こえてきた慶びを「聞くことを得たり」と記すことで、どちらも自分の想定を超えた出遇いへの感動を表現していらっしゃいます。
私が長源寺に入寺した今から約20年前、お参りに伺った当家の男性から「坊守さんのこと、よう見といたらなあかんで。」と声を掛けられました。お寺で生まれ育っていない坊守の気持ちを案じてくださったのでしょう。私が「わかりました。」と答えた直後、お連れ合いである女性が「ごえんさん。あんた男やろ。女の気持ちはわからんのやで。」と少し微笑みながらおっしゃったことがありました。
このご夫婦のお声かけは『あなたは自分と異なる他者の言葉が聞けているか』と問いかけられたように感じられ、同時にそれは私自身の仏法に対する姿勢を問われたようにも感じられました。
思えば私は、仏法でも誰かの言葉でも「聴聞」などできておらず、「訊く」ということしかできていなかったのかもしれません。この文字には「訊ねる」という意味があるように、相手の言葉の真意よりも、自分が納得できる答えを期待して聞いていただけだったのです。
それは、「わかる」を「分ける」と書くように、複数ある自分が納得できる答えの 枠組に分類して理解したことにして、枠組に収まらなかった言葉は聞き流してしまうような聞き方です。
そんな私は、一番身近にいる家族の言葉であっても、自分が納得できる言葉を探しているに過ぎず、相手の言葉をきちんと受け止めて、気持ちを理解したり聞いたりすることはできていなかったということです。
言葉選びは人それぞれ異なる上に、言葉は心の全てを表現できません。相手の真意がわからなかったり意見が違ったりしても、その言葉を選んだ背景を想像して、根気よく相手の思いが聞こえてくるまで、届けられた言葉に向き合うのです。
真剣に聴くというのは、自分の掴んだ答えの枠組が崩れることで聞こえてくるものを大切にしようとすることをいうのだと思います。その先に、互いに何が見えていて、何が見えていなかったのかに気が付くことがあり、その刹那に相手との間を隔てていた自分の枠組(思い込み)が揺らぎ、互いの世界観が少しだけ融け合うことがあるのだと思います。
それはまるで仏法と向き合い続けるうちに、過去に聞いたはずのお聖教の言葉が全く違う新鮮さをもって迫ってくることに似ているように思います。
2025年も長源寺では法要や法座を通じて、ご縁のある皆様と一緒にお念仏申し、教えに聞いて参りたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いいたします。