徒爾綴
2025年5月 春季永代経のご案内 / 徒爾綴
浄土へ往生するということは、ここで生きられるようになったということです 竹中智秀
法蔵菩薩は、自らの煩悩によって苦しむ私を憐れみ、浄土に往生させて必ずすくうと誓い、阿弥陀仏となって浄土を建立してくださいました。
その浄土の世界には地獄・餓鬼・畜生のような有様がないと、第一番目に誓われています。
地獄とは孤独の世界です。自己中心の思いによって、誰とも通じ合えずに苦しむあり方をいいます。
また、餓鬼とはどれだけ満たそうとしても満たされず、常に貪り続けて苦しむあり方です。
そして畜生とは、自分中心の思いによって、真理(本当のこと)を見失い、理性を欠き、互いに傷つけあう姿をいいます。
自分ではそれらを無縁だと思いがちですが、実は浄土の教えを聞いていくと、必ず私の現実の問題を言い当てられます。
阿弥陀様は三毒(貪り・怒り・愚かさ)の煩悩に振り回される私たちを「凡夫」と呼びかけ、「その求める方向では苦しみは止まない。お念仏申してほしい。凡夫の身そのままで必ず浄土へむかえとって救う」と、はたらきかけ続けてくださっています。
誰しも、いつかどこかで「どうにかなりたい」と願い、努力や苦労を重ねてきたのでしょう。
ところが、何を得ても心が満たされることはなく、やがて「昔はよかった」と嘆くばかりです。
私たちは、どこへ向かえばいいのかもわからず、彷徨うようにして生きてきたのです。
正信偈に「貪愛瞋憎之雲霧」と示されているように、自分の思い通りになることを貪るように求め、愛するものだけを手元に置きたいと執着し、気に入らないものには瞋りや憎しみを向けてしまう、そんな自らの煩悩が雲霧のように眼前を遮り、私たちは道を見失ってしまうのです。
そのような中で、この竹中智秀先生の「ここで生きられるようになった」というお言葉には、「やっと向かうべき、求めるべき方向を賜った」という深い実感が込められているように思います。
阿弥陀様は我々に、「この娑婆にあって、どうか浄土を欣いながら生きてほしい」と願いをかけ、今まさに「“南無阿弥陀仏”と我が名を称えてほしい」と、はたらいてくださっているのです。そして、先に浄土へ往かれ、諸仏となられた大切なお身内の方々も、またそのお一人です。
まもなく春季永代経法要をお勤めいたします。
お寺とは、ご先祖など様々なご縁に導かれて参詣し、この世間(娑婆)で苦悩する私が、阿弥陀様のお心に足元を照らされつつ、私自身の浄土への道のりを確かめる道場です。
ともにお念仏申して、仏法を聴聞いたしましょう。皆様のご参詣を心よりお待ちしております。
期日 : 5月18日(日)
日程 : 午前の座 9時30分勤行御始 法話2席 / 午後の座 13時00分勤行御始 法話2席
ご法話は 米原市上多良 眞廣寺ご住職 竹中慈祥 師 です。
2025年1月 徒爾綴
2025/01/01 | 徒爾綴
昨年1月1日、未曾有の災害が能登地方を襲いました。
まさか1月1日にとは、誰もが思ったことでしょう。
まだまだ復興が追いついていないようです。
被災された方々にお見舞い申し上げますとともに、ご縁のある皆様におかれましては、息の永い支援のご協力をお願い申しあげます。
さて、今月の言葉は 「遇いがたくして今遇うことを得たり 聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」 という教行信証総序にある言葉で、宗祖親鸞聖人が仏法に出遇えた慶びを表現していらっしゃる言葉です。
この時の「遇う」は、人や物事の真意に遇えたことを意味します。また「聞く」は真剣に聴いた先に聞こえてきたことを言い、お聖教の言葉と向き合い続けた先にようやく聞こえてきた慶びを「聞くことを得たり」と記すことで、どちらも自分の想定を超えた出遇いへの感動を表現していらっしゃいます。
私が長源寺に入寺した今から約20年前、お参りに伺った当家の男性から「坊守さんのこと、よう見といたらなあかんで。」と声を掛けられました。お寺で生まれ育っていない坊守の気持ちを案じてくださったのでしょう。私が「わかりました。」と答えた直後、お連れ合いである女性が「ごえんさん。あんた男やろ。女の気持ちはわからんのやで。」と少し微笑みながらおっしゃったことがありました。
このご夫婦のお声かけは『あなたは自分と異なる他者の言葉が聞けているか』と問いかけられたように感じられ、同時にそれは私自身の仏法に対する姿勢を問われたようにも感じられました。
思えば私は、仏法でも誰かの言葉でも「聴聞」などできておらず、「訊く」ということしかできていなかったのかもしれません。この文字には「訊ねる」という意味があるように、相手の言葉の真意よりも、自分が納得できる答えを期待して聞いていただけだったのです。
それは、「わかる」を「分ける」と書くように、複数ある自分が納得できる答えの 枠組に分類して理解したことにして、枠組に収まらなかった言葉は聞き流してしまうような聞き方です。
そんな私は、一番身近にいる家族の言葉であっても、自分が納得できる言葉を探しているに過ぎず、相手の言葉をきちんと受け止めて、気持ちを理解したり聞いたりすることはできていなかったということです。
言葉選びは人それぞれ異なる上に、言葉は心の全てを表現できません。相手の真意がわからなかったり意見が違ったりしても、その言葉を選んだ背景を想像して、根気よく相手の思いが聞こえてくるまで、届けられた言葉に向き合うのです。
真剣に聴くというのは、自分の掴んだ答えの枠組が崩れることで聞こえてくるものを大切にしようとすることをいうのだと思います。その先に、互いに何が見えていて、何が見えていなかったのかに気が付くことがあり、その刹那に相手との間を隔てていた自分の枠組(思い込み)が揺らぎ、互いの世界観が少しだけ融け合うことがあるのだと思います。
それはまるで仏法と向き合い続けるうちに、過去に聞いたはずのお聖教の言葉が全く違う新鮮さをもって迫ってくることに似ているように思います。
2025年も長源寺では法要や法座を通じて、ご縁のある皆様と一緒にお念仏申し、教えに聞いて参りたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2024年11月 報恩講・秋季永代経のご案内 / 徒爾綴
私が頑張って生きているという「妄想」が、
生かされているという「事実」から目を逸らさせる。
先日、知人から「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と筆で書いてほしいという依頼がありました。
私の煩悩によって眼を障えられて見えていなくても、阿弥陀さんの大悲は常に私を照らしてくださっているという正信偈のおことばです。
今年は心を痛める事件が多数報道されています。
例えばごく一般的な生活を送っている方が、ある日突然強盗事件の当事者になるのです。報道によると、経済的に困って高収入のアルバイトを探し、履歴書などの個人情報を送付すると、その情報を元に脅され、後には引けなくなるのだそうです。
また、指示役の言う通りに動くことが要求され、そして多くは報酬が渡されることはなく、実行役として加担した方、ターゲットにされた方だけが日常を壊されてしまうのだということでした。
「道徳を忘れた経済は犯罪である、経済を忘れた道徳は寝言である」と聞いたことがあります。
経済というのは生活に欠かせないものであり、とても大切です。
でも、経済は自分が得をすると、必ず誰かが損をする仕組みになっています。
それゆえに道徳心、倫理観がとても大切だと言われるのだと思うのです。
では果たして私たちの道徳心というものの正体は、一体何なのでしょうか。
ここ最近、人と話をしていて何度か「地縁」という言葉を耳にする機会がありました。
地縁によって経済を循環させてきた、地縁によって支えられて、生活が成り立ってきたという方もいらっしゃるでしょう。また逆に、地縁によって辛い思いをして、地縁的関係が嫌で仕方がないという方もいらっしゃるように、地縁をどこに見出すのかは、人それぞれ違うようです。
おそらく20年近く前から「無縁社会」という言葉を聞くようになったと思いますが、この無縁社会の問題は、孤独死、DV、児童虐待、家庭崩壊、貧困などの現代社会の問題の多くを孕んでいます。
実は、これは地縁が崩壊していくことと深く関わっているように感じています。
道徳心は関係性が見えてこそ育まれるものだと思います。
ところが、地縁が崩壊する時には、関係性を見失い、プライバシーを重視し、個人主義化し、「恥」や「お互い様」ということに極端に鈍くなり、自己の利益にのみ注視する傾向が強くなってしまうのだそうです。
しかし、実はこれは「煩悩具足」と言われる私たちが持っている正体でもあるようにも思います。身を「煩」わせ、心を「悩」ませるものが「煩悩」だと教わりますが、煩わせ、悩ませるものを自分の外に見出し、都合の悪い関係性を断とうとするのが私なのです。
実はそんな私の道徳心は、煩悩具足の私を悲しむ阿弥陀さんの光が届いてはいても、煩悩(妄想)に眼を障えられたまま、事実に背を向けてしまうようなお粗末な道徳心なのでしょう。
まもなく報恩講です。阿弥陀さんのお心を共に聴聞いたしましょう。
ご参詣お待ちしています。
◎11月9日(土)
13時30分 逮夜
御俗姓 大阪府堺市 光照寺 日野廣宣師
ご法話 滋賀県東近江市 玄照寺 瓜生 崇師 2席
引き続き
御伝鈔 住職
お勤め
ご法話 滋賀県東近江市 玄照寺 瓜生 崇師 1席
◎11月10日(日)
9時 晨朝兼日中
ご法話 滋賀県東近江市 玄照寺 瓜生 崇師 1席
秋季永代経
13時30分
ご法話 滋賀県東近江市 玄照寺 瓜生 崇師 1席
住職挨拶
以 上
2024年4月 徒爾綴 / 春季永代経のご案内
「学仏大悲心」の「学」とは、
まずそれぞれの物差しを離れて謙虚に受け入れること
いいかえると長年にわたって染込んだ常識をもって、
み教えを理解しようとしないことです。清岡隆文氏
どこでお見かけした言葉かは覚えていませんが、当時とても心に響いたことは覚えています。
理解しようとすることは自然なことかもしれませんが、理解しようと力むと、自分の物差しによる「解釈」に溺れることがあります。
自分が色々知っているという驕りが理解できると思わせるのです。
理解するのではなく、「そもそも気が付いていないこと」に謙虚に耳を傾けようとした時、ふと思わぬ方向から「理解させられる」ことがあり、そこに力みはなく、自然と腑に落ちるということがあるように思います。
例えば身近な方と死別すると、問うて応える人はもう手の届かないところに往かれたけれど、多くの方が「今になってわかったことがある」と仰います。
私にも、いただいてきたものの大きさを惜しみつつ、気が付かなかった自分を悔み悲しんだ経験はあります。私たちが何か(誰か)を理解していくというのは、本当の意味ではその対象を失った時なのかもしれません。
大切な誰かと一定の距離を与えられることで、漸く気が付くのです。それは決して自ら気付いたのではなく、一緒にいる時には身近であることが却って壁となって、理解できていなかった自分に気付かされたにすぎないのです。
故人に抱く感情は故人からのいただきもので、故人を縁とした法要や法座などの仏事も故人からのいただきものです。そういう意味では、全ては自発的なものではなく、授かったものばかりだったのではないかと思うのです。
誰かと一緒に生きることは決して安穏なことばかりではなく、日々色んな感情がおこります。大切な方でも大切に思えない日があったり、傷つけたり傷つけられたり。少しも一貫性がなく、何が飛び出すかわからない私(因)は、相手との関わりを授かって(縁)、結果的(果)に喜怒哀楽の感情が生まれているような有様です。
「長年にわたって染込んだ自分の常識をもって」何でも理解しようとするということは、仏法だけではなく、縁ある誰かからいただいているものも謙虚に受け入れることなど出来るはずもないでしょう。自分の都合(物差し)で良し悪しと分別して、理解できたと結論づけて、それ以上そのことと向き合わなくなるのです。それでは、大切な方のことばの本意は聞こえないまま終わることもあるでしょう。
幸せになりたいと願って日々頑張って生きているだけなのに、なぜか大切な誰かと壁を作るような悲しい生き方になってしまう。そんな私に「自分の物差しではかり続ける先に救いはないとどうか気付いてくれ」との呼び声が、故人を縁に営む仏事の出発点ではないかと思います。
まもなく春季永代経です。どなた様も、ぜひお参りくださいますよう、ご案内申しあげます。
◎4月21日(日)
午前9時30分勤行 法話2席
午後13時00分勤行 法話2席 いずれも本堂にて勤まります。
ご法話は 岐阜県揖斐郡 等光寺ご住職 石井 法水 師 です。
2024年1月 徒爾綴
2024/01/01 | 徒爾綴
仲間でいる間は仲間だが 条件が変われば仲間はずれになる
昨年7月に輪番を拝命してからというもの、日々多くの方とお出会いする中で、法要や法座だけでなく様々な出来事を通じ、本当に色々と良い刺激をいただいています。人と人とのつながり、関わりの中に身を置かせていただくことの温かさ、しんどさ、面白さ。決して平坦ではありませんが、とても大切な場をお預かりしていると感じています。
院内でも、職員と日々様々なことについて話し合います。
それぞれが何を見てどう考えているのか、互いに言葉を尽くすのです。
ある時私が「仲間」という言葉を使うと、必ず「輪番さん、違いますよ。友達ですよ」という職員がいました。最初のうちは「そう?わかった」と述べ「友達」と言い換えていましたが、何回も指摘され続けているうちに、だんだんとそのことが私にとっても課題になっていきました。
本人に尋ねても「だって違うじゃないですか」とニコニコするばかりです。
「仲間作りは仲間はずれを作る」と聞いたことはありましたが、彼が「仲間」の何にひっかかっているのか釈然としませんでした。
10月にあるお寺でのご法話にお招きいただいた際、そこのご住職にご相談申しあげましたところ「悲しいけれど仲間には手枷足枷がはまる」そして「仲間は仲間でいる間は仲間だが、条件が変われば仲間はずれになる」とお話しくださいました。
「仲間」は決して悪い言葉ではありませんが、この場合は仲間でいるためにルールや空気で「顔色を窺って」繋がるのが「仲間」。互いに尊重し合う「気遣い」はあるものの、きちんと話し合うことができて、一人の人間として関わり続けることができるのが「友達」だと受け止めました。仲間は仲間でいるために足並みを揃えようと様子を窺い、自分が仲間であるかどうかを確認し続けなければなりません。しかし友達は意見や視座が違っても友達なのです。仏法僧の僧(僧伽/さんが)とはそういう関わりのことをいうのではないでしょうか。
互いの事情をくみ取ることも大切ですが、仏様のはたらきの中で、互いに声を掛け合って、何が本当で、何が正しいのかを共に考え歩む友達の集まりが僧伽なのです。
我々の生活するこの娑婆は、堪忍土(かんにんど)と呼ばれます。縁によって自分の意思とは関係なく様々なことが起き、その一つひとつを引き受けていかざるを得ないのです。気が付いたらこの条件で生まれ落ちており、どちらに向かって生きていけばいいのかわからないけれども走らざるを得ない人生において、自分の意思や信仰心だけを頼るのではなく、共に教えに導かれて友達(僧伽)に背中を押されるようにして歩む、そんな関わりを頼もしく感じます。
2024年も長源寺では法要や法座を多数予定しております。
皆様と一緒にお念仏申し、共に教えにわが身を聞き、語り合う時間を大切にして参りたいと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2023年11月 徒爾綴 / 報恩講・秋季永代経法要のご案内
ご恩報謝とは、恩を返すことではなく、
ご恩を無駄にせぬことである。小山法城
ずいぶんと「掲示板のことば」を更新できないままでいます。
役割も環境も変わって数ヶ月が経ちますが、まだまだ毎日戸惑うことばかりで、思うより早く過ぎ去る時間の中で焦る気持ちだけが取り残されているように感じています。
坊守が正社員になってからは、毎日遅くまで仕事をするようになった坊守に代わって、朝食作りは私の担当でした。
昼食と夕食は坊守。いつもおいしいごはんを作ってくれます。でも外食するとなるとお肉やお寿司を好んで食べ、唐揚げやポテトサラダなども好んで注文していました。
ところが外食が多くなった最近、以前はあまり注文しなかった焼き魚を注文したり、何かの煮物を注文したりするのです。
「今享受しているご恩というのは失ってからしか本当にはわからない」とは九州の伊藤元氏のお言葉です。しばらくの辛抱とはいえ、今まさに家族の恩が身にしみています。
人生で受けるご恩というのは本当に沢山あります。
両親の恩、祖父母の恩、学校や部活動(クラブ)の先生も恩師と呼びますね。他にも地域で受けるご恩もそうですが、大抵が「先輩」からのご恩であるように思います。けれども私たちは生きる上で、子の恩、孫の恩、後輩の恩など実は先輩後輩関係なく縁ある方々のご恩を受け続けて存在しているように思います。
気がついているご恩以上に気がついていないご恩もたくさんあるはずですが、悲しいことに鈍い私は伊藤元氏のお言葉通り失ったり、離れたりするまではご縁を良縁悪縁と都合で計ってしまいがちです。特に関係性が近ければ近いほどです。
そんな私だからこそ「振り返る時間」がとても大切なのだと思います。
誰かを振り返っている時間は、実はその方と一緒にいる時間でもあるのです。
折に触れて振り返ることで、当時はわからなかったことに気が付き、愚かにも気が付いていなかった自分と出遇い、そんな自分と関わりを続けてくれていた「その方」と出遇い直しができるのです。
その方が今生きていらっしゃっても、お亡くなりになっていても、私たちは出会った以上、その方からの影響を受けなくなることはないのです。
改めて「ご恩」と報(しら)されることで自分の在り方に悲しみをおぼえ、賜ったご恩に報いていこうとする生活がはじまるのです。
そしてご恩に対して抱く「感謝」とは謝意を感ずると書くように、「ごめんね」と「ありがとう」が同時のものなのです。
今年も報恩講をご縁に参詣し、共にお念仏申し教えを聞き、悩み多き宗祖90年のご苦労を振り返り、私にまで伝え続けてくださった先達のご苦労をも振り返ることで、全てが私と無関係ではない大事な「ご恩」であったと報(しら)される。そこからご恩に報(むく)いていこうとする生活がはじまることが「ご恩を無駄にしない」ということなのだと思います。ぜひお参りください。
報恩講
◎11月11日(土)
13時30分 逮夜
御俗姓 大阪府堺市 光照寺 日野廣宣師
ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 2席
引き続き
御伝鈔 住職
お勤め
ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 1席
◎11月12日(日)
9時 晨朝兼日中
ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 1席
秋季永代経
13時30分
ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 1席
住職挨拶
以 上
2023年8月 徒爾綴
2023/08/01 | 徒爾綴
遇いがたくして 今遇うことを得たり
聞きがたくして すでに聞くことを得たり 教行信証 総序
数ヶ月前にご法事で伺ったお家でのことです。
そこでは仏事があると、決まって床の間に1935(昭和10)年に還浄されたお祖父様がお書きになったというお軸をお掛けになります。
普段と変わらぬお参り中の何気ない会話の中で、「おじいさんは写真が嫌いだと言って、この軸をわしやと思えと遺言されたんです」とお話しくださって、途端にお軸の見え方が変わりました。
そこには「極重悪人唯稱佛」と書かれていて、左上に小さく昭和乙亥(昭和10年のこと)とあり、左下に寳海院浮龜謹書とありました。
このお軸のエピソードをお聞きするまではあまりしっかり見ていなかったのでしょう。
途端に「寳海院浮龜」というお名前が「盲亀浮木」の譬えをおっしゃっているのではないかと思い至りました。
それは海底に住む目の見えない亀が、100年に1度浮かび上がって海上に顔を出すのですが、そのタイミングで偶然穴の空いた流木が漂ってきて、たまたま亀の頭がその穴から出るというお話です。これは私たちが人間として生まれること、そして仏法に遇うことがいかに稀かということの譬喩でお釈迦様がお話になったそうです。
出会っていても出会えておらず、聞いていても聞けていないのが私の常です。
このお軸にしても、以前からお見かけしているのに、その託された願いには全く気がついていなかったのです。
人のことでもお念仏の教えでも、聞いて理解しているようで、自己流の解釈で誤解し、見落としていることばかりです。
わかっているつもり、知っているつもりで自分の理解の範囲に落とし込んで、落とし込めなかった部分は気にも留めない私が、たまたまのご縁で法に遇い、気付いて(わかって)いなかった自分に出遇った時、「すまなんだなぁ極重悪人であった、気付けてよかった」と感じ、願いをかけ続けてくださる阿弥陀様の呼び声に応じてお念仏申す生活が始まるのだと思います。
だからこそ阿弥陀様から見た私、つまり「極重悪人」(正しいつもりなので罪深い)は阿弥陀様からの呼び声に応えて生きよ「唯稱佛」(ただ念仏を称えよ)と大きく書き示されたのだと思います。
さらに「わしやと思え」と言い遺して、お子さんやお孫さんに細かく説明なさらなかったのは、「自ら教えを聞いて確かめて、お念仏申してほしい」との呼びかけではないのかと受け止めました。
たくさんの方が私たちのところまで仏法を伝えようと阿弥陀様のお手伝いをしてくださっている事実があるのです。見ても聞いても、いつでも気が付かないのはわかっているつもりの私なのです。
2023年6月 徒爾綴
2023/06/18 | 徒爾綴
よしあしの文字をもしらぬ人はみな まことの心なりけるを
善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり 親鸞聖人
親鸞聖人は「良し悪しの文字をも知らぬ人」は「まことの心」で、「善悪の字しりがお」つまり「何事もそれなりの見解をお持ちの方」は、「おおそらごと(大嘘言)」であるとおっしゃいます。私の常識とは全く逆ですが、実はここがとても大切だと思います。
私たちは日々多くの物事を見聞きし経験します。そのことで様々なことを自分なりに理解し、判断するようになります。
わかるとは「分ける」と書くように、何事も自分の理解の「枠」に分類することで、一応「解った」ことにしていくのです。ですから、その「枠」が多いと「答え」が増えたようでとても便利です。そして分類方法である「枠」が似ている人とは意見も合いますが、「枠」が異なる人とは合わないことがよくあります。
けれども、その「枠」は経験によって大きさや形が変化し更新されますので、人間関係も日々変化します。
だから「枠」は「惑」に通ずると教わりました。自分の判断、分類に迷いがないことを「惑」というのです。
道を間違っていても「迷っている」と気が付かない限り、立ち止まって地図を確かめることがないのと同じで、道を求め、教えに問い尋ねることを忘れるのです。
近年、何事もじっくり向き合って取り組んだり、何度も何度も考えをめぐらせたりすることよりも「わかりやすいかどうか」「できるかどうか」が重視される傾向にあるように思います。どれほど大切に長い間伝承されてきた御聖教(ご法話)でも儀式でも「難しいことはダメなこと」「やったことがない、できないものはダメなこと」なのです。「楽・わかりやすい」が重視され、大体主語は「私が」ではなく「みんなが」です。
人間の要請に応える宗教と人間そのものを明らかにする宗教との峻別が明瞭にならないと宗教が曖昧になる。とは廣瀬杲氏の言葉です。
仏教は人間そのものを明らかにする教えだからこそ、宗祖はこのご和讃をお詠みになったのだと思います。
比叡山でのご修行に励まれた努力や苦労も手柄にして誇り、納得した答えを掴む「枠」を生み、その「枠」に縛られる歩みにしかならない。そういうご自身の姿をごまかさずに受け止められた深い悲しみのご和讃なのでしょう。
そしてだからこそ法然上人に教えられた「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さんの呼び声に応えていく道に喜び、自分の善悪・好悪ではなく縁のあったこの道を大切に歩まれたのだと思います。
言わば、自ら囚われ苦しみ悩む「惑」からの衆生解放が法蔵菩薩の誓願(本願)でしょう。
なのに、どんなに枠を破られても必ず新たな枠(惑)を生み出す私なのです。
だからこそ、たとえ今の自分にわからなくても、目の前の人や物事と丁寧に向き合っていこうとする「しらぬ人」を忘れぬ歩みを「愚禿」と名告られたのではないかと思います。
2023年5月 徒爾綴
2023/05/23 | 徒爾綴
「信火内にあれば行煙外にあらわる」
内に火があれば煙が外に出るにきまっておる。
暁烏 敏
先日、兵庫に住む両親や兄弟姉妹家族とキャンプをしました。テントで宿泊した翌朝、樹々の葉が擦れる音と鳥たちの鳴き声が響く中、朝早く起きる父と私は焚火をしながら色んな話をしました。
昔の朝の仕事は火をおこすことから始まったのだそうです。その言葉通り父は、新聞紙一枚と木片であっという間に火をつけてしまいます。中でも生活習慣の変化によって受けた恩恵と酬いの話は印象的でした。しっかり根を張る雑木林を無くして根の浅い売れる木ばかりを植えたことが影響して土砂災害が増え、花粉も多くなったことなど、父からすれば当たり前の事で、私からみたら驚くことを沢山教えてもらいました。
私の眼は電気やガスで簡単に火がおこれば便利でいいという発想です。それは「根元」より上の目立つところだけを見て、単純に便利だの快適だの、自分の都合で生きる眼です。
焚火を前に語る父の眼は、便利なことは結構だが、快適さや目先の都合ばかりを求め、自然と人が循環するような営み全体の大きな流れを見失った生活の危うさを見つめているようでした。
コロナで見直せたものもあれば、見失ったものもあるように思います。今や私達が簡便さを求める勢いは想像以上に加速しているように感じます。「煩悩を原動力にしたものは回復しやすいが、煩悩に立ち向かおうと大切にしてきたものは回復し辛い」とは訓覇浩先生のお言葉です。
仏事でもそれ以外のことでも「簡便さ」は快適で理想的なカタチとして目に映ります。しかし簡便であるということは手をかけないということです。手をかける必要がないということはとても楽ですが、同時に経験を失います。
仏教には「解学」と「行学」という言葉があります。聞いて学ぶことと同じくらい、行ずることがとても大切だと言われます。
教えを聞き、その教えを身に行じようとした時に初めて見えてくるものがあるのです。
学生の頃「ええからやってみろ」とよく言われたことを思い出します。いくら考えて理解を深めたとしても、やはり経験には敵わないのです。
末燈鈔(真宗聖典603p)では『文沙汰(ふみざた)して、賢々(さかさか)しき人のまいりたるをば、往生はいかがあらんずらん』と自分の頭で思い得た視座で色々なことを批評し、行ずることがない人の往生はどうだろうか、と法然上人が疑問視していらっしゃるお姿が記されています。
仏法聴聞して「わかった」「知り得た」と思った時、無意識のうちに敬意を失い、仏法(仏事)が分かった人間として、仏法(仏事)を自分の理屈で利用してしまうことがあります。
内で何を大切にしているかは外に出るものです。
自分の理解に教えを当てはめて納得するのではなく、お念仏申しつつ先達が私たちにまでお伝えくださったその願い(根元)が「聞こえてくるまで」一緒に聴聞しましょう。
2023年4月 徒爾綴 / 春季永代経のご案内
ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり 蓮如上人御一代記聞書193
人との向き合い方と、仏法との向き合い方はよく似ているように感じています。
先日法座のあとで数名の参加者の方々と「宗祖のお言葉にこだわる」とか「お聖教に帰る」というような話をしていた時、ふと私は本当には宗祖のお言葉にも、お聖教にもこだわってはいないのではないかと思いました。
聴聞という言葉があります。「聴」は聞こうとして聴くことをいい「聞」は聞こえてくることをいうのだそうです。
私は「聴聞しましょう」と言いながら、実はそのどちらでもなく「訊」という聞き方をしていたのではないかと思い至りました。
それは「訊」にたずねるという意味があるように、どれほど聴聞を続けても何か自分に合う「答え」を期待して聞いているだけではないかと思ったのです。
つまり自分の理解の枠組があって、その枠内に収まる話かそうでないかという聞き方です。
「分かる」は「分ける」と書きますが、自分の中にいくつかある枠組の中に、宗祖の言葉もお聖教も勝手に分類して理解したことにするのです。
それで「宗祖の言葉」や「お聖教」にこだわっていると言えるでしょうか。
自分の理解、自分の考えにこだわり、自分の分類方法に納得しているに過ぎないのです。
またそれが誰かの言葉であれば「こういうことを言いたいのだろう」と自分の解釈で分かったような気になって、本当の意味では全く通じ合えていないということもあるはずです。
御経は釈尊の教えに出遇ったお弟子さん方によって綴られており、「如是我聞」(私はこのように聞きました)で始まります。
しかし言葉は教えや気持ち、考えなど大切なことを表現する一つの手段ではありますが、その全てを表現することはとても難しく、表現者の中でできるだけ近いもの、正確なものを慎重に選択します。
だからこそ受け手は時代背景や当時の文化を想像したり、多くの情報を頼りに正確に理解しようとするのです。伝えられた言葉とじっくりと腰を据えて対話するように向き合うのであって、自分の枠に落とし込んで理解しようとすることとは違うのだと思います。
日常の対話でも同じことです。真意がわからなかったり意見が違ったりしても、目や表情そしてその言葉の背景を想像して、根気よく相手の思いが聞こえてくるまで向き合うのです。
そのことで何が見えていて、何が見えていなかったのかを知ることを通して、相手との間を隔てていた自分の枠組が揺らぎ、互いの世界観が少しだけ溶け合うのでしょう。
真剣に聴くというのは、自分の枠組が崩れることで聞こえてくるものを大切にするのであって、決して教えや誰かを自分の解釈の枠に落とし込んで理解したことにしてはいけないのだと思います。
経験したり学んだりするほど枠組は増え、様々な理解が進むように感じます。難しいことですが、それが却って迷いを深めることがあると忘れてはならないのでしょうね。
まもなく永代経です。どなたでもお参りいただけます。
その時に自分の中で結論が出なくても、わからなくても、聞こえてくるまで一緒に聴聞しましょう。
◎4月30日(日)
午前9時30分勤行 法話2席
午後13時00分勤行 法話2席 いずれも本堂にて勤まります。
ご法話は 岐阜県揖斐郡 等光寺ご住職 石井 圭 師 です。