2024年11月 / 報恩講・秋季永代経のご案内

11月 2nd, 2024 Posted in コトバ, 徒爾綴, 法要案内 | no comment »

私が頑張って生きているという「妄想」が、

生かされているという「事実」から目を逸らさせる。

 

先日、知人から「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と筆で書いてほしいという依頼がありました。
私の煩悩によって眼を障えられて見えていなくても、阿弥陀さんの大悲は常に私を照らしてくださっているという正信偈のおことばです。

 

今年は心を痛める事件が多数報道されています。
例えばごく一般的な生活を送っている方が、ある日突然強盗事件の当事者になるのです。報道によると、経済的に困って高収入のアルバイトを探し、履歴書などの個人情報を送付すると、その情報を元に脅され、後には引けなくなるのだそうです。
また、指示役の言う通りに動くことが要求され、そして多くは報酬が渡されることはなく、実行役として加担した方、ターゲットにされた方だけが日常を壊されてしまうのだということでした。

「道徳を忘れた経済は犯罪である、経済を忘れた道徳は寝言である」と聞いたことがあります。
経済というのは生活に欠かせないものであり、とても大切です。
でも、経済は自分が得をすると、必ず誰かが損をする仕組みになっています。
それゆえに道徳心、倫理観がとても大切だと言われるのだと思うのです。

では果たして私たちの道徳心というものの正体は、一体何なのでしょうか。

ここ最近、人と話をしていて何度か「地縁」という言葉を耳にする機会がありました。
地縁によって経済を循環させてきた、地縁によって支えられて、生活が成り立ってきたという方もいらっしゃるでしょう。また逆に、地縁によって辛い思いをして、地縁的関係が嫌で仕方がないという方もいらっしゃるように、地縁をどこに見出すのかは、人それぞれ違うようです。

おそらく20年近く前から「無縁社会」という言葉を聞くようになったと思いますが、この無縁社会の問題は、孤独死、DV、児童虐待、家庭崩壊、貧困などの現代社会の問題の多くを孕んでいます。
実は、これは地縁が崩壊していくことと深く関わっているように感じています。

道徳心は関係性が見えてこそ育まれるものだと思います。
ところが、地縁が崩壊する時には、関係性を見失い、プライバシーを重視し、個人主義化し、「恥」や「お互い様」ということに極端に鈍くなり、自己の利益にのみ注視する傾向が強くなってしまうのだそうです。

しかし、実はこれは「煩悩具足」と言われる私たちが持っている正体でもあるようにも思います。身を「煩」わせ、心を「悩」ませるものが「煩悩」だと教わりますが、煩わせ、悩ませるものを自分の外に見出し、都合の悪い関係性を断とうとするのが私なのです。

実はそんな私の道徳心は、煩悩具足の私を悲しむ阿弥陀さんの光が届いてはいても、煩悩(妄想)に眼を障えられたまま、事実に背を向けてしまうようなお粗末な道徳心なのでしょう。
まもなく報恩講です。阿弥陀さんのお心を共に聴聞いたしましょう。
ご参詣お待ちしています。

◎11月9日(土)

13時30分 逮夜

御俗姓 大阪府堺市 光照寺 日野廣宣師

ご法話 滋賀県東近江市 玄照寺 瓜生 崇師 2席

引き続き

御伝鈔 住職

お勤め

ご法話 滋賀県東近江市 玄照寺 瓜生 崇師 1席

◎11月10日(日)

9時  晨朝兼日中

ご法話 滋賀県東近江市 玄照寺 瓜生 崇師 1席

秋季永代経

13時30分

ご法話 滋賀県東近江市 玄照寺 瓜生 崇師 1席

住職挨拶

以 上

2024年4月 / 春季永代経のご案内

4月 6th, 2024 Posted in 徒爾綴 | no comment »

「学仏大悲心」の「学」とは、

まずそれぞれの物差しを離れて謙虚に受け入れること

いいかえると長年にわたって染込んだ常識をもって、

み教えを理解しようとしないことです。清岡隆文氏

 

どこでお見かけした言葉かは覚えていませんが、当時とても心に響いたことは覚えています。

理解しようとすることは自然なことかもしれませんが、理解しようと力むと、自分の物差しによる「解釈」に溺れることがあります。
自分が色々知っているという驕りが理解できると思わせるのです。
理解するのではなく、「そもそも気が付いていないこと」に謙虚に耳を傾けようとした時、ふと思わぬ方向から「理解させられる」ことがあり、そこに力みはなく、自然と腑に落ちるということがあるように思います。

 

例えば身近な方と死別すると、問うて応える人はもう手の届かないところに往かれたけれど、多くの方が「今になってわかったことがある」と仰います。
私にも、いただいてきたものの大きさを惜しみつつ、気が付かなかった自分を悔み悲しんだ経験はあります。私たちが何か(誰か)を理解していくというのは、本当の意味ではその対象を失った時なのかもしれません。
大切な誰かと一定の距離を与えられることで、漸く気が付くのです。それは決して自ら気付いたのではなく、一緒にいる時には身近であることが却って壁となって、理解できていなかった自分に気付かされたにすぎないのです。

 

故人に抱く感情は故人からのいただきもので、故人を縁とした法要や法座などの仏事も故人からのいただきものです。そういう意味では、全ては自発的なものではなく、授かったものばかりだったのではないかと思うのです。

 

誰かと一緒に生きることは決して安穏なことばかりではなく、日々色んな感情がおこります。大切な方でも大切に思えない日があったり、傷つけたり傷つけられたり。少しも一貫性がなく、何が飛び出すかわからない私(因)は、相手との関わりを授かって(縁)、結果的(果)に喜怒哀楽の感情が生まれているような有様です。

 

「長年にわたって染込んだ自分の常識をもって」何でも理解しようとするということは、仏法だけではなく、縁ある誰かからいただいているものも謙虚に受け入れることなど出来るはずもないでしょう。自分の都合(物差し)で良し悪しと分別して、理解できたと結論づけて、それ以上そのことと向き合わなくなるのです。それでは、大切な方のことばの本意は聞こえないまま終わることもあるでしょう。

 

幸せになりたいと願って日々頑張って生きているだけなのに、なぜか大切な誰かと壁を作るような悲しい生き方になってしまう。そんな私に「自分の物差しではかり続ける先に救いはないとどうか気付いてくれ」との呼び声が、故人を縁に営む仏事の出発点ではないかと思います。

まもなく春季永代経です。どなた様も、ぜひお参りくださいますよう、ご案内申しあげます。

◎4月21日(日)

午前9時30分勤行 法話2席

午後13時00分勤行 法話2席 いずれも本堂にて勤まります。

ご法話は 岐阜県揖斐郡 等光寺ご住職 石井 法水 師 です。

2024年 同朋学習会のご案内

2月 10th, 2024 Posted in お知らせ, 聞法会 | no comment »

今年度の「同朋学習会」の日程が確定いたしました。

本年も皆様と共に、仏法聴聞させていただくことを楽しみにしております。

ご家族、ご友人など、お誘い合わせの上ご参加くださいますようご案内申しあげます。