2026年3月 春季永代経のご案内 / 徒爾綴

最終更新:2026年02月27日

念仏申さむと思ひ立つこころの起こるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。歎異抄 第九章
 

私たちは普段の生活の中で、ふと「人生とは何なんやろう」と考えることがあります。
どう生きるのが良いのか、自分の歩んでいる道は間違っていないのか、間違ってきていないのか。
そんなことを思い巡らせることがあります。
けれども、実際の人生を振り返ってみますと、私が人生を問い続けているというよりも、むしろ人生の中で起こってくる出来事の中で「あなたはどう生きるのか」と、人生の側から私の方が問われている場面の方が多いように思います。

 

思い通りに進んでいるようなときには、人生についてゆっくり考える余裕もあります。
しかし、予想していなかった出来事が起きたとき、私たちは立ち止まらざるを得ません。
そのとき、立派な答えを持っているわけではない自分に気づかされます。
自分を守ろうとしたり、誰かのせいにしたくなったり、無理に意味を見つけて納得しようとしたりする。そういう姿が、そこに現れてきます。

 

仏教では人間を、いつでも正しい答えを出せる存在とは見ません。
迷い、揺れ、ときに自己中心になりながら、それでも生きていく存在として見つめます。
だからこそ、自分で完璧な答えを作り出すことよりも、私を超えたはたらきの中で、自分の姿を知らされていくことが大切だと思います。
 

浄土とは、今を生きる私の目を開く教えであり、歩みを支える大地であり、やがてひとり死にゆくこの身を包み込む世界です。
先立たれた方も、いま生きる私も、ともにその大きなはたらきの中にあると知らされるとき、生老病死をはじめとするすべての苦悩がすでにおさめ取られ、支えられていたと開かれてくるのではないでしょうか。
 

そこに、迷いのただ中にあるままで、すでに摂め取られている「摂取不捨」の世界が開かれてくるのだと思います。
 

親鸞聖人は、人間の弱さや迷いを見つめながら、釈尊や高僧方から伝わる言葉を理解・解釈しようとするのではなく、その言葉そのものと真剣に向き合われました。
そして、そこから聞こえてきた教えに照らされ続ける中で、人生の本来性が回復され続けていく、そのような営みを大切にされた方ではなかったかと思います。
 

人生をすべて理解しきることはできなくても、人生の中で出遇うあらゆる出来事を通して、自分の姿を知らされながら生きていく。その歩みそのものが、私たちの人生となっていくのでしょう。
 

人生を思い通りにすることはできません。
しかし、その中で自分の姿を知らされながら生きていく歩みの中にこそ、私たちが生きていく確かなよりどころがあり、それが「浄土」という世界であり、濁世を生きる私たちの目や足として示されているのだと受け止めています。
 

 

期日 : 3月22日(日)

日程 : 10時00分勤行御始 法話2席 

ご法話は 米原市上多良 眞廣寺ご住職 竹中慈祥 師 です。