徒爾綴

2023年1月 徒爾綴

2023/01/01 | 徒爾綴

自分は間違っていない  正しいことを言っている

というときほど危ないのです。  一楽 真 氏

 

「これからのお寺は大丈夫か」よく尋ねられる質問です。

正直わかりません。

また「寺院」という共同体が消滅する可能性も否定できません。
ただ「仏様のはたらき」は決してなくならないと思います。

 

随分前から納骨や本堂でのお葬儀について相談させていただいてきました。
納骨志等を将来の修復整備に向けて、門徒会計に積み立てる計画です。
ただこれは伽藍の維持管理の一助となるだけで、問題はもっと他にもあるように思います。

 

寺の存続が大切か、お念仏の教えを通して集い語る人の歩みが大切か。
学校に例えるなら、学校運営が大切か、学問を通して営まれる先生や生徒、関係者一同の歩みが大切かというようなことです。

どちらも大切ではないとは言い切れませんが、一歩間違えると進むべき道を見失いかねません。

「願い」を確かめずに、テクニックや方法論に走ると、必ず誰かが置いてけぼりにされるのだと思います。

 

これは国家でも、会社でも、家庭でも、どんな共同体にも言えることだと思います。

みんながどのような場所にしていきたいのかという願いを共有することがまず先だと思います。

お寺でいえば、「願い」や、そのもととなる教えを表現する「法座」や「儀式」を大切にするのであって、住職や坊守など特定の「誰か」を中心にするのがお寺ではないのです。

その共同体で声の大きい「誰か」が認められると、必ず意見の違う誰かが傷つき、置いてけぼりにされ、それ以上そこには居辛くなるのです。
それが本当に創立時に願われた姿だったのでしょうか。

 

お寺のことでも地域のことでも、会社や学校のことでも、大切に守られてきた共同体を壊すのは、必ずしもそれに不慣れな方だけではないでしょう。

もちろん軽率に変化させたり辞めてしまうのは論外ですが、「伝統を心得た」という確信ある在り方にも存続を危ぶませる作用があるのではないでしょうか。
もし共同体において誰かが居辛くなるようなことがあるのなら、それは共同体創立の「願い」に立ち返って見直すべきタイミングでしょう。

 

どれほど教えを聞いていても、衣を着て儀式を執行していても、どれほど一生懸命に携わっていたとしても、「これでよし」と我が納得に安住する姿は、考えることを辞めてしまっているのと大差ありません。
一生涯教えに導かれなければ、「正しい自分」を迷信し、愚かな他者、間違いだらけの社会を自分の眼前に生み出し、正しいはずなのに、互いに苦しまなければならなくなってしまいます。

だからこそ本年もお念仏申し、教えを聞き、一緒に言葉にすることで考えさせてください。どうぞよろしくお願いいたします。

2022年12月 徒爾綴

2022/12/12 | 徒爾綴

人は死んでも、その人の影響は死なない

Martin Luther King Jr.

 

今年も多くの方をお見送りしました。

生前のお付き合いが多ければ多いほど、様々な想いが去来します。

 

遺された方々がおいでになっていても、時折「みんな逝ってしもた。寂しなったわ」と言う言葉をお聞きします。

人と人とが出会うということは、様々な影響を与え合います。

互いに気分のいいこともあればよくないこともあります。

でもそれは出会ったその人としか共有できない思い出でもあり、同じ時を過ごした者でしか共有できない感覚もあるのだと思います。

 

私もこのお寺に来て17年が経とうとしています。

お一人おひとり、想い出が積み重なってきています。

仏事に限らず一緒に過ごした時間が積み重なって、故人となられても折に触れ思い起こします。そしてその印象は一定のものではなく、新たに気付かされることもあります。

人が出会うというのは想像以上に重く、生きている限りいつまでもその影響を受け続けていくのでしょう。

 

お寺に関することでもそうです。他所から来た私たちには全くわからなかった仏事や仏事に対する伝統的な関わり方について、時に厳しく、時に優しく教えていただき、わけがわからないままにも経験し、影響を受けて徐々に共有させていただけるようになってきたという感じがしています。

 

ところがコロナの煽りで縮小(中断)になっていることも少なくありません。

でも規模縮小にて執行される報恩講などの伝統的な仏事や行事は、実は住職や坊守にとっても「楽」なのです。

それもそのはず。大切なこととして伝わってきているものは、たいてい準備の段階から私たちの日常生活のリズムを狂わせるからです。

 

おそらくそのようにして自己都合を優先して、人生がいつまでも続くと信じて「生活のため」に勤しむ私を、日常生活から一旦立ち止まらせるのが狙いなのではないでしょうか。

必ず突然崩壊していく日常の事実を仏前にて立ち止まらせて、考える時間を与えられているのだと思います。

 

コロナ対策が徐々に見えてきた今、仏事や行事の見直しも必要だとは思いますが、先に歩まれた方々が私にまで伝えてくださった願いを考えることは、先達への敬意と、未来の方への責任でもある思います。

 

自己都合によって出てくる「結論(果)」はお伝えくださった影響を消し去りかねないものが多く、私を出発点にした結論の理非は後から気が付くことばかりです。

むしろ現在にまでお伝えくださった「因(もと)」を訪ねることで、ようやくその願いが見え、何をどのように伝えていくのかを考えることもできるのだと思います。それが因の心(恩)を受けとめた姿であり、「影響が死んでいない」姿だと言えるのではないかと思います。

2022年10月 徒爾綴 / 報恩講・秋季永代経のご案内

2022/10/13 | 徒爾綴, 法要案内

宗教の問題は煩悩でなく、

 分別から人間を解放することになる。 安田理深

 

この言葉には続きがあります。

「分別というものが人間の主体性を奪っている。煩悩が奪っていると、一応いえるけれども、さらに再応考えれば分別が奪っている。」

 

30代前半、自分がどうしていたらいいのかよくわからず、何だかもがいていたような時期がありました。

そんな時連れ合いに「あなた一生懸命誰かに合わせようと無理してない?」と周囲の「正解」に合わせようと必死だった自分の姿を言い当てられ、ハッとさせられたことがあります。

実は自分のことは自分が一番わかっているようで、一旦「こうした方がいい」という「分別」を掴むと、認知バイアスがかかり「それ」以外見えなくなります。

 

またある時は、大きな行事の決定事項が何度も何度も変更になって全く仕事が追い付かない中、それとは別にチームでやるような仕事を「なんとか一人でやってくれないか」という話になり、職場でも家でも常にパソコンと向き合い、永遠に終わらないんじゃないかと思う作業と向き合っていました。

 

そんな大変な時期にある日急に腰が痛くなり、徐々に身動きが取れなくなって、麻酔も効かず他の薬も効かず、10日間ほど安静にすることを余儀なくされたことがありました。

気質的な原因は不明でストレス性のものだったそうですが、実は「しなければいけない事に励んでいるだけ」のつもりでしたから、ストレスが原因だとはにわかに信じられませんでした。

 

「分別のある子」、「分別のある大人」という言葉があります。しかし頼りになるはずの分別によって逆に苦しんだり、知らず知らず自分や誰かを追い込んだりすることがあるのです。

 

それは自分で経験して獲得した「分別」のようで、実は何か過去の心地よくない記憶が底にあって、ある程度社会生活を快適に営むために大切な「正しさ」や「正しい大人・社会人」という、物事を分別・判断する「枠」を教えられ、自分や周囲を規定してきたに過ぎないのではないかと思うのです。

 

「枠」は「惑」に通じると教えられます。

 

迷いは「どうしたらいいのかわからない」状況ですが、惑いは「こうでないとあかん。こうなるはずや」というルールや答えに縛られた状況です。

 

自分の中の「分別」できる「枠(答え)」が増えるほど、そのことを除けて物事を考えることができなくなります。

行き詰まったり進路が狭まってしまう時、思えばいつも私の思いが道を閉ざしていたのでした。

そして悲しいことに、苦しんで手に入れた大切な「分別」は、時代や状況と共に変化し、いつか「過去の常識」に変わり果てることもよくある話です。

 

来月は報恩講です。日常の忙しさから一旦立ち止まって仏前に詣し、お念仏申し教えを聞き、共に判断に迷い分別に惑う、自分自身の眼を確かめたいと思います。是非ともお参りください。

 

報恩講

◎11月12日(土)

13時30分 逮夜

御俗姓 住職

ご法話 玄照寺 瓜生 崇 師 2席

18時 御初夜(お取越しは内勤めにします)

御伝鈔 住職

ご法話 玄照寺 瓜生 崇 師 1席

◎11月13日(日)

7時30分  晨朝

朝御講(御斎)今年は中止いたします。

10時    日中

ご法話 玄照寺 瓜生 崇 師 2席

秋季永代経

13時30分

住職挨拶

以 上

2022年9月 徒爾綴

2022/09/27 | 徒爾綴

人は二度死ぬ

 

長源寺仏教婦人会では、年に1度映画鑑賞会をします。

今年は、あるご門徒さんのおすすめで「リメンバー・ミー」というディズニーの映画を鑑賞しました。

お念仏とか極楽浄土とかという事とはまた別に、死後の世界が現在の延長線上で描かれているところをとても楽しんで観ることができました。おすすめです。

とても印象的だったのは「人は2度死ぬ」というセリフがあったことです。

自分のことを覚えてくれている人がいなくなると、肉体を失った死後、その存在自体が消えてしまうということでした。

実は竹中智秀先生が「人は2度死ぬ。1度目は肉体の死で、2度目は存在の死です。忘れ去られるのです。これは決定的な死です。だから2度は死なせまいとして法事を営むのです」とおっしゃいました。

ところが故人のためを想って仏事を勤める時、実は故人の思い出だけではなく、自分は故人に対してどういう存在でいたのだろうかと、自分自身を見直しさせられてはいないでしょうか。

また生きている間も、誰かが私を知ってくれているから生きていられるのです。誰も私を知らなければ、どれほど孤独でしょうか。私の思う印象であろうと無かろうと、他者との関わりの中で私は私でいられるのです。

生きていらっしゃっても、お亡くなりになっていても、出会った以上、私は他者との関わりの中で影響を受け続けて存在しているのです。

「リメンバー・ミー」のリメンバーとは「remember」と書きます。

「remember」は「思い出す」と訳しますが、「re」は繰り返しを意味し、「member」はラテン語の心にとどめる「memor」が語源です。

つまり、繰り返し繰り返し心に留めるというのが本来の意味だったようです。

以前先輩に○回忌というのは、「言ってみればお亡くなりになった日が1回忌だと言える」と教わりました。初めて故人の死を受け止める日です。だから1周忌は「言い換えれば2回忌とも言える」2回目、故人の死を受け止めるのです。

繰り返し繰り返し思い起こすことを通して、繰り返し故人と、そして故人も導かれた教えに出会い直し、繰り返し私の日常の有様を見直す。

平素、自分の思いに迷い揺れて悩み苦しむ私が、自分もまた必ず全てを手放して終えていく人生において、何を本当に大切にしていくのかを教えに知らされて人生の立ち位置を取り戻す。そんな時間が故人を縁に訪う(とぶらう)仏事だと言えるのではないでしょうか。

2022年8月 徒爾綴

2022/08/21 | 徒爾綴

憶念とは、忘れていたものを思い出すという意味 宮城顗

 

本山や別院では7月に盂蘭盆会をお勤めしますが、関西では一般的に8月がお盆の季節です。

この時期はいつも以上にバタバタと境内を出入りします。
ふと参道横の前栽に目をやると、百日紅が綺麗に咲いています。実はこの百日紅を見るたび、先月17回忌を一緒にお勤めいただいた先代住職のことを思い起こします。

ご存知の通り、先代住職と私たち家族は血の繋がりはなく、面識もありませんでした。

先代住職は若い頃、日赤の看護部長を勤めながら住職として頑張って来たようです。
退職後20年経過してもかなりしっかりしており、物事もはっきりと言う方でした。
また厳しい側面もありましたが、情に篤く、芯の通った住職でもありました。

あの頃は、後を継ぐのはもちろんですが、「先ずは家族にならなければ」と思っていたことを思い出します。
日頃から食事は一緒にして、実の親と同じくらいモノを言い、実の親以上に気をつかわなければいけないと思っていました。

それでも「近くに寄れば影が見える」というように、一つ屋根の下に住んでいると色々とあるものです。お互い思うようにはいかんのです。

そんなある日「今年は百日紅の花が見られんな」と言うのです。

私は「百日紅ってどれ?気候が変なの?」と、その意味がわかっておりませんでした。
でも先代住職はその言葉通り、百日紅が咲く前の6月に還浄いたしました。

後から遺品整理をしたり、ふとした時に、故人の思いに出会い直したりすることがよくあります。
気が付いた時にはもういないのです。大切なことはなぜかいつも後から気が付くのです。
何年も経ってから気がついたことも沢山あります。

お互いに煩悩の火を燃やしあっている時には相手に焼かれまいとして、自分の努力や正しさをわかってもらうのに必死です。だから「気をつかう」といいながら、相手の考えや願いを汲み取るのは後回しになりがちです。
それは悲しいことに、縁ある方々から今いただいているものや、以前からいただいてきたものも自分の善悪・好悪・損得で受け止め違いすることが多いあり方です。
その証拠に、相手が煩悩の火を消してくださった途端に、自分本位で浅はかであった、情けない自分の姿と向き合わされます。

自分の感覚を優先してしまう私は、情けない姿に向き合わされたことを傲慢にも「気付いた」と錯覚しがちです。
故人がいてくださったお陰なのです。
この気付きもいただきものなのです。

そういう意味では故人を縁に勤める儀式や法座を縁に忙しい日常から一旦足を止めて、故人との日々を憶念し、教えを通して損得・好悪に揺れる私の眼を、齷齪する私の足元を再確認する時間をいただき続ける営みがとても大切だと思います。

2022年7月 徒爾綴

2022/07/22 | 徒爾綴

雑行を棄てて本願に帰す  教行信証 「化身土巻」真宗聖典399頁

 

「雑行」とは我が力、自分の努力などを頼りとすることで、「正行」(お念仏の行)に対して言われる言葉です。

親鸞聖人は9歳から比叡山で一生懸命修行されましたが、29歳で法然上人の本願他力の浄土の教えに帰依されました。言葉にしてしまえばこれだけの事ですが、20年間の努力を放棄するのは並大抵のことではなかったことでしょう。

 

私は長浜に来て約17年です。長浜別院での勤務年数も同じです。

別院のお誘いを受けた理由は、住職として生きる上でこれ以上理解を得られる職場はないと思ったからです。

また、継続して日々きちんと勤行することで、儀式作法のあらゆることが身に付きます。さらに、聴聞の機会も増えます。

常に仏法に関することが身の回りにあることで、色んな物事が教えを通して見せられ、考えさせられる環境は大変ありがたいのです。

 

ところが17年経った私は、果たして本当に本願の教えに帰していると言えるか怪しいのです。

数年に一度、他業種への転職のお話を頂戴します。毎回待遇も良く有難いお話です。収入が増えれば生活は楽になるでしょう。それでも毎回悩みます。

今まで通りにお寺のことができるのか不安になるのです。儀式もそう、聴聞もそう。

 

「浄土真宗の教えは、どのような生活をしていても聞ける」「その生活全体が教えを聞くご縁となる」と言いながら、今までよりも仏法に触れる時間が減るのでは、と不安になってしまいます。

 

ところがこの不安の正体は、実は自分が「今まで頑張ってやってきた」という苦労や努力、経験が手放せずに変化を恐れているだけなのかもしれないと思うのです。つまり、「雑行」です。手立てが目的化して、帰すべきお念仏に帰せず、棄てるべき雑行に執着している姿そのものでしょう。

 

自分でも気がつかないうちに、仏法を利用して我が努力を肯定してしまうのです。それは仏法を歪め「雑行化」しているのと同じです。そして、「これでよし」「今までやってきた」という思いに座り込み安心してしまっている姿でもあります。

その証拠に、どれほど儀式や聴聞を重ねても、ちょっと揺さぶられると本願に帰すどころか、雑行に帰す自分の脆さが露呈します。

 

『浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし

虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし』

 

とは宗祖が晩年に詠まれたご和讃ですが、「本願に帰す」るとは、お念仏の教えに導かれながら、雑行に執着する「虚仮不実」の私に出会い続けて生きるということなのかもしれませんね。

2022年6月 徒爾綴

2022/06/17 | 徒爾綴

仏に出遇うということは

 仏に背きつづけている私に出遇うということです。 藤元正樹

 

「帰国子女のボクサー崩れの若造に何ができる」

就職して間もない頃に言われた言葉です。

 

お寺の世界を知らなかった私は、先に歩む8歳上の兄と比較される事も多く、宗門の大学を卒業し、宗門の人間関係の中で仕事をしている方々に対して引け目を感じている時期がありました。

 

勤務先ではご門徒のお宅にお参りに行く事が多く、お寺の法要では多くの本山関係者も出仕くださるので、まずは儀式をしっかり勉強しないといけないと思いました。

兄や本山に勤める親戚など、色んな先生のところに足を運び、教えを乞いました。

そして、そのうちそれなりに評価をいただくと、おかしな事が起こります。

評価し、比較する側に回るのです。

 

その事に気付かせてくださったのは、法座を大切に開き続けておられる諸先輩方でした。

儀式も大切だけれども、その意味や意義を仏様の教えに訪ねて行く歩みの重要性を知らされ、また足を運び、教えを乞いました。

でもまたおかしな事が起こります。

教えを聞いても、自分の聞く力は不問にして「このお話はいい」「今日はいまいち」と評価する心が起こってくるのです。

 

儀式や教えを聞く事を通して出遇ったのは、仏様や仏様の教えよりも、自分で掴んだ何かを頼ろうとする、私自身の自力根性の深さでした。

それは仏様を疑い背く姿そのものなのです。

 

日頃の人間関係や、教えの言葉に出遇った時も同じ事です。

「頼りになる」「大切だ」「わかった」と思ったものに縛られて、そうでないと思うものとの分断を生み出すのです。

立場や人に囚われ、頷いた教えの言葉に囚われ、握りしめた狭い世界観に閉じこもり、他と比べて懸命に自分の正しさに執着します。

どれほど大切な事であっても執着の対象となった途端、厄介でしかありません。

ついにその暗く気忙しい区別する心から解放される事なく日々が空過してしまうのです。

 

誰しも何か(誰か)を頼りにして生きているのだと思いますが、変化していくものにすがるよりも、変わらぬ仏様と仏様のお念仏の教えを依り処として生きようと勧めるのが浄土教です。

 

「仏に背き続ける私に出遇う」とは、仏様に手を合わせながら、実は少しも仏様を依り処とせず、むしろ仏様の教えを「わかった自分」になって救われようとして分断を生む、自分でも気が付かない自分自身の暗さに出遇う事だと思います。

自分の暗さに出遇うことで初めて仏様(光)の存在を知るのです。

それでもすぐに囚われて再び背いてしまう私だからこそ、生涯いつでも何度でもお念仏申し、仏様の教えを聞き続け、囚われの闇から解放され続ける道を生きるのです。

2022年4月・5月 徒爾綴 / 御遠忌円成

2022/05/26 | 徒爾綴, 法要案内

おかげさまのどまんなか 東井義雄

 

ご門徒の皆様を初め、内陣・外陣の法中様方、親類、家族、多くのお参りの皆様のおかげで無事、宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要兼蓮如上人500回御遠忌法要が円成いたしました。

何事をするにしても、平素はつい自分の大変さが目につくものです。ところが皆さんと一緒にこの法要をお迎えする中で、「関わってくださるお一人おひとりがいてくださったお陰」また「自分は全体のほんの一部に関わらせていただいているだけ」という事を、今までにないくらい強く感じました。

住職のためではなく、お寺のためと言われればその通りなのですが、関わらせていただいた一人としては、私以外の全ての方に感謝しかありません。

このご縁に一緒に会わせていただけた事に衷心より感謝申しあげます。

思えば2005年にこのお寺にご縁をいただいて約17年。そしてこの法要の計画が立ち上がってから約10年。本当に色んなことがありました。決して平坦ではなかったと振り返っています。

本堂や仏具の修復、新調、設備の調整など、これからのお寺を考えて、何回も何回も話し合いを重ねました。

それは「法要をご縁とした整備」というよりも、法要をお迎えするための準備を通して、今私たちが何を大事にして生きていくのか、そして何を後の世代に託したいのかを、私たち自身が確認しているかのように感じました。

何でもしたいようにできるわけではありません。経費の問題だけでなく、色んな問題が起こって方向転換したり、思いもよらぬ手助けがあったり。右往左往しながらの10年間でした。しかも、そこにきてコロナと年末年始の雪害です。マスク生活はしばらく続きそうですし、樋や瓦もまだ修復できてはいません。

当たり前のことですが、本当に「生きる」という事は、自分の思いを超えて色んな事を受けていかんならんのですね。

それでも行き詰まる事なくここまで来れたのは、一緒に悩み、考えてくださる方々のお陰であったと思います。また今回一緒にお迎えすることができなかった方々も含め、多くのみなさんのお姿に背中を押され続けたお陰で、今日もまだ住職・坊守としてなんとか続けさせていただいているのだと思います。

この御遠忌の円成で「やれやれ」と言う安堵の気持ちと「終わってしまった」と言う寂しい気持ちが入り混じっています。

そんな中今後のお寺を考えるに、やはり思うようにならない事や、今は想像できないような色んな事があるのだと思います。

中には私に縁ある「おかげさまのどまんなか」であるといただく事ができない事もあるでしょう。それでも今後もここで、皆さんと一緒に仏法を聴聞し、お念仏申して参りたいと今の自分の気持ちを確かめさせていただきました。

本当におかげさまです。今後共どうぞよろしくお願いいたします。

 

以下、ほんの一部画像を掲載(*出仕者、ご講師を除いては個人が特定できない画像のみ)します。

アルバムや動画はお寺で保管しています。ご覧になりたい方はご一報ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年3月 徒爾綴

2022/03/17 | 徒爾綴

和とは不和のかなしみなり 曽我量深

 

先月末からのロシアとウクライナの戦争が激化し、世界全体にも影響を与えています。

 

『他者の現在を思いやること、それは分からないから思いやるんであって、理解できるから思いやるのではない。』とは鷲田清一氏の言葉ですが、ロシアにはロシアの、ウクライナにはウクライナの、自らの行動を正当化する理由があるようですね。
しかし意見の異なる相手は排除対象だと言わんばかりに、武力に訴える行為は全くもって愚行としか言いようがありません。早期終息を強く願います。

 

対話が成立しないと、意見の異なる人とも共に生きていると言う「事実」を見失いがちです。
「私」が私一人で存在しているわけではないように、あらゆる存在は、そのものだけで存在しているわけではないのです。しかし理屈ではそうではないとわかっていても、「私」の眼では世の中は「正しい(好き)」と「間違っている(嫌い)」の2種類にしか見えません。

 

「私」は厄介です。
「私」を中心に世界を見ると、共に生きるあらゆる存在、あらゆる事象を有害と無害とに分けてしまいます。
つまり争いの元は「私」です。

 

「私」を全く離れて生きることはできませんが、「私」を掴んで離さない私に「諸法無我」と世界の本当の姿を伝えてくださる仏様の教えをたよりに生きようとする「道」が、改めて大切だと感じています。

 

それは決して「私」の思いを肯定し、補強する耳障りのいい言葉をたよりとすることではないと思います。
「私」が納得できる「答え」を求めて教えを聞くのではなく、「それでいいのか?」と教えの方からの問いかけに「応え」ることが「教えをたよりに生きる」ということだと思います。

 

三重県の池田勇諦氏は『聞法とは私の「考え」の物差しが教えによって問い返されること』とおっしゃいます。

 

聞き続けることで確かな存在になったり、正しい判断ができるようになるわけではありませんが、「私」の思いよりも仏様の呼びかけ(お念仏の教え)に応えて生きようとした時、意見の異なる他者と互いに責め合う私たちが、共にその「道」に救われていくということがあるのではないでしょうか。

2022年2月 徒爾綴

2022/02/04 | 徒爾綴

八万の法蔵をしるというとも

後世をしらざる人を愚者とす  蓮如上人

 

「八万の法蔵」とは、沢山ある釈尊が説かれた教え(御経)の事で、「沢山の御経を学び知っていたとしても」という事になります。そしてその後続けて、後世を知らない人を愚者と言うのだと仰います。

「後世」とは、現世が今なら生まれる前が前世、死後を後世というのでしょう。

 

お葬儀など、ご自身が亡くなった後の「現世」を気にかける方はお見かけしますが、ご自身の後世を気にかけている方はあまり知りません。
また「前世占い」も人気みたいですが「前世」と言いつつ、現世を快適に生きようとする為のものでしょう。

 

親鸞聖人は人生を「難度海」と海に譬えられました。度は渡と同じ意味です。

人生は荒波のように困難が多いものです。前世や後世よりも、現世の色んな問題を乗り越えようと、命ともいうべき人生の時間をかけて、みんな幸せな明日を夢見て一生懸命に頑張っているのです。

そうやって「将来の幸せのために」「明日のために」と頑張り続けますが、もし「明日が来なくなった」ならば、今まで現世のために頑張ってきた意味は一体どうなるのでしょう。

 

実は親鸞聖人の仰る「難度海」とは、人生は困難が多いという事を表現しているのではなくて、人生自体の意味を見出す事ができなければ、どれほど頑張って有意義に生きても、結果的に人生は真っ暗な荒波に揉まれて最期は沈む迷いの海でしかなくなると表現されたのだそうです。

 

長浜に来たばかりの頃、あるご門徒さんに「仏事が多い地域ですね」と話しかけたら「ごえんさん。仏縁は多い方がええんやで」と言われました。

これは、現世の諸問題から一旦立ち止まって「人生そのものの問題」と向き合う時間を大切にしようとする方のお言葉であると感銘を受けました。

 

しかしコロナで混迷する今「仏事は不要不急」と言って現世の諸問題にこそ時間を費やそうとする風潮はないでしょうか。
慌ただしい日々の出来事の中で一旦立ち止まる機会が無いと、問題に振り回されて「早いなぁ」と時の流れに驚いている内に、人生を「振り回され続けた時間」として消費してしまわないかと不安になります。

 

仏教とは、釈尊が覚られた真理を言葉にしてくださったのが始まりです。
釈尊入滅後も、多くの方々が「人生そのものの意味」を御経に問い続けて生き抜かれ、その身を通した言葉を紡いでくださった人生を貫く教えです。
その「人類の歴史」ともいうべき教えの中で、いのち全体の問題に向き合うために伝わったのが「後世」という世界観です。

 

その教えに耳を傾けて考える機会を失えば、自分が生きてきた程度の答えしか出ないのです。
母の胎内の記憶もなく、気がつけばいつの間にか現世を生きていた私たちは、どれほど頑張って我が「知恵」を絞り続けても、気がつけばいつの間にか終わりを迎えるのです。

今年も多くの法要・法座を予定しています。
仏縁を大切にお念仏申し、仏様の「智慧」に耳を傾け、どちらを向いて生きるのか共に考えましょう。