法要案内

2019年10月 徒爾綴 / 報恩講・秋季永代経のご案内

2019/10/08 | 徒爾綴, 法要案内

一人の人の死は悲しい

しかし、残された私がその事から何も学ばず

何ひとつ生み出せないとすれば

それはもっと悲しい            酒井義一

 

「終活しておいた方がいいかな」というご相談がしばしばあります。

そんな時、私はいつも「あまりお勧めはしません」とお応えしています。

実際、私は娘に「君が納得できるようにしてくれればいい」としか伝えていません。

 

なぜなら、終活を丁寧にすればするほど、遺された人は悩む事なく葬送の儀を執行する事ができますが、それが本当にいい事なのか私にはよくわからないからです。

 

私は「悩む」と言う事は「向き合う」事だとも思うのです。

大切な方の死を受け止めるには時間がかかるものですが、その悲しみの中で慌ただしくも様々な決断を迫られ、その事で悩み、相談し合い、決断していく行為には大切な意味があると思います。

 

大切な方をどの様に送るのかと悩む事は、今後自分がその死(その方)をどのように自分の内に抱え、受け止めて生きるのかが含まれていて、それは同時に「跡を継ぐ」事の始まりとなっているように思います。

 

私自身、先代住職と共に生活したのは半年ちょっとですが、今でも生活していた頃の思い出だけではなく、葬儀や中陰の事が思い出され、折に触れ「先代から受け継いだ」”今”を意識します。

 

また、遺品整理も大切な出遇い直しのきっかけとなります。

どんなに些細なメモ書きであったとしても、そのメモを手に取る事で、跡を継ぐ者は何かしら感じるものです。

物に触れ、思いを馳せる事によって故人の大切にしていた事、あるいは人知れず悩んだり喜んだりした一面に気付かされる事があるのです。

そしてそれを通して、再び故人を身近に感じる事で、今ある自分の有様を振り返るきっかけにもなります。

今、仮につまらない物だと思っても、遺された人にとっては大切な遺品となったり、思いもよらない気付きになったりするのです。

 

家族葬も増えているそうですが、遺品だけでなく、「人間関係」もその人が生きた証です。

都合の良し悪しではなく、縁ある方々と共に見送る事を通して、遺された人は「自分の知らない故人」に出遇う機会をもらうのだと思います。

 

なので、必ず終えるこの人生に悩みつつも、教えに導かれながら生き切る事が一番の終活だと思います。

来月11月9日(土)、10日(日)は報恩講です。

それぞれが教えに訪ねてく時間を共に過ごしたいと思います。

 

報恩講

◎11月9日(土)

13時30分 逮夜

御俗姓 大阪 光照寺 日野廣宣 師

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 2席

18時   初夜兼お内仏御取越し

御伝鈔 住職

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 1席

◎11月10日(日)

7時    晨朝

朝御講(御斎をみんなでいただきます)

10時    結願日中

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 1席

 

秋季永代経

13時30分

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 1席

以 上

御遠忌高札をたててくださいました!

2019/04/03 | お知らせ, 法要案内

長源寺では、2020(令和2)年4月4日に蓮如上人500回忌を、翌5日には宗祖親鸞聖人750回御遠忌を厳修いたします。

御遠忌まであと1年ほどになり、先月末日にご門徒の皆さまが高札をたててくださいました。

「まだまだ」と思っておりましたが、「いよいよ」といった感じがしてまいりました。

ご門徒の皆さまが毎月集まって相談し、一緒に考えて行動してくださる姿に背中をおされます。

及ばずながら精一杯お勤めさせていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

2019年 修正会

2018/12/31 | 法要案内

平成31年 1月1日 午前9時より

本堂にて一緒に正信偈をお勤めさせていただきます。

どなた様もお誘いあわせの上、お参り下さいますようご案内申し上げます。

釋 卓靜

2018年10月 徒爾綴 / 報恩講・秋季永代経のご案内

2018/10/22 | 徒爾綴, 法要案内

人生には 三つの坂がある のぼり坂 くだり坂 そして まさか

 

急性腰痛症になりました。

初期症状は軽い違和感を覚える程度で、だんだんと車の乗降が辛くなり、次第に何をしていても鈍痛が出るようになりました。

整体、整形外科、内科も受診しましたが原因不明。

心因性、つまりストレスじゃないかとか言われることもあり、対処に困っておりました。

ついには安静にしても堪え難い激痛が走り救急車を呼んでほしいとも思いましたが、何とか歯を食いしばりながら最寄りの病院まで送ってもらいました。

しかしやはり、触診・尿検査・採血でも原因不明。

1番強い鎮痛剤を投与していただいても完全に痛みが取れる事はありませんでした。

しかし翌日、痛みが少し和らいできた事もあり大きな病院での診察でレントゲン撮影もしましたが、原因不明。

さらに数日後MRIの撮影をしましたら、ようやくヘルニアであったと判明しました。

 

思いもよらない形であらゆる予定をキャンセルする事になり、多くの方にご迷惑やご心配をおかけする事になってしまいました。

そんな自分では何もできない、お願いしてお任せする以外ない状態になり、色々と考えさせられました。

 

安田理深氏は、「忙しいということは、怠けている証拠だ」とおっしゃいます。

 

これから年末までは、お寺でもご門徒宅でも法要が多い時節です。

この時期は一番体調管理に気を使います。しかし、その忙しさの中で立ち止まって色んな事ときちんと向き合う時間まで無くしてしまっていたのかもしれません。

 

「なくす」は漢字で書くと無くすとか亡くすとかがあります。

無くすは物を失えるですが、亡くすは人や動物の命がなくなる様子を表現しています。

 

忙しいのは心を亡くすと書くと言われますが、実は亡くしているのは私自身なのかも知れません。

 

私を亡くした状態とは、「これでよし」「私は間違っていない」と我を忘れた状態であり、欠点や迷いを忘れた姿です。

そういう時は、頑張っている自分や人の粗ばかりが見えるのです。

 

そんな時は道を教えてやるとは思っても、自分が道を知らされなければならない存在だとは考えません。

つまり、その人生に求道はないのでしょう。

 

「空過」する人生とは、怠けている感覚ではないと教えてもらいました。

「忙しい」と気忙しく予定に追われ、今は他の事を考える余裕もない状態で、そんな日常を過ごし続け、最終的に大切な事を何も知らず、あらゆるものを手放してから「わしの人生は何やったんやろか」と愕然とする姿を言うのだそうです。

つまり、後から空過した事に気が付くのですね。

もし気忙しさを感じているのなら、今まさに空過しているのかもしれません。

 

この度、日常の気忙しさから無理矢理にでも離された事で「まさか自分が」と思った私は、忙しいと言いつつ大切な事と向き合う時間を疎かにしてきた、怠っていたのだと教えられます。

 

ご法事やご法要というのは掃除から荘厳、あらゆる依頼や案内まで何かと支度が大変です。しかもその時間(勤行・聞法)は日頃とは時間の流れが違います。

忙しい中でも手を止めて、足を止めて教えに我が身を知らされる、追われる日常(自分の都合)から一旦離れてみる、とても大切な時間であると言えるのではないかと思います。

来月11月10日(土)、11日(日)は報恩講です。

共にお念仏申し、それぞれの立場で教えを聴聞し、自分自身を回復する時間を共有しましょう。

 

報恩講

◎11月10日(土)

13時30分 逮夜

御俗姓 大阪 光照寺 日野廣宣 師

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 2席

18時   初夜兼お内仏御取越し

御伝鈔 住職

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 1席

◎11月12日(日)

7時    晨朝

朝御講(御斎をみんなでいただきます)

10時    結願日中

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 1席

 

秋季永代経

13時30分

ご法話 大阪 法泉寺 永井貴宗 師 1席

以 上

 

2018年4月 徒爾綴 / 春季永代経のご案内

2018/04/03 | 徒爾綴, 法要案内

人は死んでも その人の影響は死なない
                マーティン・ルーサー・キング・Jr.牧師

 

昨年から今年にかけて、多くの方とのお別れが続きました。つくづく自分は一人で生きているわけではなく、関係存在だという事を実感しています。

人がお一人お亡くなりになると、景色が少し変わるような気がしています。
その人のお家、お内仏、愛用品、共に過ごした場所。
どこを見ても、もうそこにはいらっしゃらないんです。

中陰壇がある間は、その変化に気付きにくいかもしれません。
しかし、中陰壇が無くなってからお参りに伺うと、特にその空気の変化を肌で感じます。

人が一人生まれるということ。
人が一人生きるということ。
人が一人日常生活からいなくなるということ。

春は出会いと別れの季節でもあります。
引越し、転勤、死別…別れにも色々あります。

縁の遠い近いはあるにせよ、誰しも影響しあって生きているんですね。
もしかしたら、人生のあらゆる出来事は、互いに影響を与えたり、与えられたりすること以外には何も無いのかもしれません。

そのように考えてはいても、実は日常生活の中ではそんなこと全く意識していません。

「俺は癌で死ぬんやない。生まれたから死ぬんや」
とは、ある先輩のご友人が遺された言葉です。

誰しも、生きているからには、生まれたからには別れを免れることはできません。
だからこそ後悔しない人生、後悔しない出会いと別れをと願っても、何故か後悔するようなことになってしまいます。

するとそのうち後悔してしまっても、以前にお聞きした言葉、共に過ごした時間を胸に抱いて生きることはできるのだと納得しようとし始めます。しかし、私の知識や経験で乗り越えようとする限り、また同じ失敗を繰り返し続けます。

やはり、私個人の視座によって形作られた、私の思いではなく、いつでも(時代や世代を超えて)、どこでも(国や地域を越えて)、誰でも(立場や性別を問わず)が頷いて来られた生死を超える教えこそが、目印のない人生における指針となりうる真実の「教え」なのだと思います。

間も無く春季永代経です。

共に仏法を聴聞し、人生のあらゆる局面において、その仏の教えをたよりとして、一緒に考えましょう。

4月22日(日)午前10時〜 と 午後2時〜 いずれも本堂にて勤まります。

ご法話は 長浜市高月町西野 充滿寺 西野 健太郎 師 です。

どなたでもお参りいただけます。

お念珠と肩衣(お持ちであれば)を持って、是非お参りください。

2018年1月 徒爾綴 / 修正会のご案内

2018/01/01 | 徒爾綴, 法要案内

あらたまの 年のはじめは祝うとも 

南無阿弥陀仏の こころわするな

蓮如上人

 

この時期、私の日頃のこころはお祝いムード一色ですが、蓮如上人は南無阿弥陀仏のこころを忘れるなと仰います。

 

学生時代にお世話になった竹中智秀先生が次のようにおっしゃっています。

「死のない生を前提とした人生設計は幻想である」

 

現代の我々の理想が生み出す快適便利なものは、無意識的に「死」は前提から除外されていることが多いように思います。

 

 

例えば最近はSNSという無料で個人のページを作れて交流できるという便利なサービスがあります。

そのお陰でお寺の様々な活動が活発になってきたのも事実ですが、ページの持ち主が亡くなってもページは存在し、さらにその方のお誕生日を祝うようにお知らせまでしてくれます。

なんとも言えない感情が起こってきます。

 

あるいは以前住んでいた街では、二人でいっぱいになるエレベーターや非常に狭い階段の建物がありました。御棺や担架で運び出される事を前提としていないという事でしょう。

 

「生」のみが私たちの前提となった時、いつまでも生きるつもりで、病んだり傷ついたり亡くなったりする事実を抱えた存在である事を忘れます。

 

それに対して昔ながらの日本家屋は生老病死を前提としているように思います。

何事かあれば、田の字に並んだ四部屋の和室が、三十畳ほどの大きな一部屋になります。

おめでたい日も、そうでない日も縁ある人々と迎え、送ることができます。

しかも、その建物自体も古くなって壊れたり傷んだらいくらでも修繕できるようになっています。

限りあるものに手をかけて、出来るだけ大切に長く付き合う事が前提となっています。

 

私の日頃のこころは我欲に浮かれたり沈んだりしますが、蓮如上人がお勧めくださっているのは、物だけでなく人に対しても、死や終わりがあるという事実を南無阿弥陀仏のこころによって知らされつつ、二度と繰り返せない日々を縁ある人と大切に生ききるという人生ではないでしょうか。

 

たとえ日常の細事に振り回され、日頃のこころに埋もれてしまうとしても、季節の節目や亡き人をご縁とした仏事の際に、共に聴聞することで同じく生老病死する人生を振り返りましょう。

2018年もどうぞよろしくお願いいたします。合掌。

 

修正会

日 時 2018年1月1日(月) 午前9時 御始

場 所 慶運山 長源寺 本堂

みなさまのお参りを、こころよりお待ちしております。  釋 卓靜

2017年10月 徒爾綴 / 報恩講・秋季永代経のご案内

2017/10/18 | 徒爾綴, 法要案内

 

寺があるから仏法が聴けるのではなく 仏法を聞くために寺が開かれた

 

兼業で共働きで忙しいのに、なぜ月に何回も法座を開いているのですか。

 

先日、中外日報の記者さんにそう尋ねられるまで、ちゃんと考えたこともなかったです。

とっさに「自分が聞きたいから」しか出ませんでした。

 

12年ほど前、私が家族と入寺させていただいた時からすでにこの慶運山 長源寺という聞法の道場はあったんです。

まさか年に数回の法要のためだけにこんな立派な本堂を建てられたわけではないでしょう。

かつては毎月法座があったともお聞きしました。

 

あるご法要の御斎の席で「正信偈の意味が知りたい」というご門徒さんのご要望から始まり、遠近各地の方々と聴聞させていただくようになって、早4年。

 

お寺離れ、宗教離れが叫ばれる昨今ですが、現に一緒に聞きたいと足を運んでくださる方々や、語ることでいただいた教えを共有したいと仰ってくださる方がいてくださいます。

そして私はそこで道場の管理人としてお手伝いをさせていただき、一緒に聞き語ることで悩んだり喜んだりしているのです。

 

確かに、住職家族がこれからも食べていけるかどうかなんてわかりませんし、お寺という形態が残るかどうかもわかりません。いつでも先は見えません。

 

しかし私は、仏法そのものは絶対に無くならないと思うのです。

 

今回尋ねられたことで考えてみると、仏法と、そして共に聴聞してくださる方々とに背中を押されるように促され、気付けば私自身が聞かずにおれなくなっていただけなのでしょうね。

 

また、そうでもしないとずぼらな私は、お掃除も仏花立てもサボってしまうような住職ですからね。笑

 

うまく語れないし、すぐに何かを確信して道を見失う。自分一人では何もできない。まさにお陰様のど真ん中です。有難いことです。

 

来月には長源寺報恩講です。是非ともお参りくださいますようご案内申しあげます。

 

報恩講

◎11月11日(土)

13時30分 逮夜

御俗姓 大阪 光照寺 日野廣宣 師

ご法話 京都 大行寺 佐竹英里子(英月) 師 2席

18時   初夜兼お内仏御取越し

御伝鈔 住職

ご法話 京都 大行寺 佐竹英里子(英月) 師 1席

◎11月12日(日)

7時    晨朝

朝御講(御斎をみんなでいただきます)

10時    結願日中

ご法話 米原 即徃寺 京極眞了 師 1席

 

秋季永代経

13時30分

ご法話 米原 即徃寺 京極眞了 師 1席

以 上

 

2017年3月 徒爾綴 / 春季永代経のご案内

2017/03/09 | 徒爾綴, 法要案内

死とは、死を賭して周りの者を導く、人生最後の授業 

                      藤原新也

 

今年に入ってからもまた、お浄土へとお見送りすることがありました。

 

長浜に住んで丸11年が経つと、それなりに関係性もでき、その中で生まれた思い出も少なからずあります。

 

「一生を終えて後に残るのは、我々が集めたものではなく、与えたものである」とはGérard Chaudry(ジェラール・ショドリー)というフランスの聖職者のことばだそうですが、遺された者の一人としては、しみじみとそのことを実感しています。

 

長浜では50回忌を一つの区切りとしておられます。

先月お見送りした方のお宅も、すでに皆さん50回忌を終えておられました。

 

しかし、それでも月参りをしてほしいとご依頼くださり、そのお陰で他所から来た私にも色々と思い出ができました。

 

囲碁や短歌、俳句などを教えていただきました。

それらがご縁となって、知らなかった世界観に出遇わせていただき、それまで考えたことが無かったことも考えさせていただきました。

 

それに、お参りの際に耳が遠いとおっしゃっていた会話が本堂の音響を整えるきっかけにもなりました。

色んなお話を聞かせていただきましたし、むしろ聞いていただいたことの方が多かったかもしれません。

 

また今月お見送りした方は、色んなご縁が重なって6年程前にお会いした方で、ご夫婦で会社を経営しておられました。お話をお聞きしたり社員さんと関わったりしておられるお姿から、多くの示唆を与えていただいたようなことがありました。

 

そう考えてみますと、やはり私の人生全体は、実は全て偶然のご縁の中での出来事で、私が考えて獲得したのではなく、全ては与えていただいていたことだったように思います。

私たちは複雑に絡むご縁の連鎖から生まれる果を縁として、無限に反応しあって生きているということでしょう。

 

つまり、自分が存在しているということは、他者と無縁であることができないでいるということです。

縁ある他者との別れは、与えて続けてくださったものを再確認させてくださることを通して故人と出遇いなおす縁ともなり、与えていただいたもの全てを獲得したものと錯覚し、あって(居て)当たり前だと勘違いしていた傲慢な自分とも出遇いなおすことになるのだと思います。

 

経験、苦労、知識、得たもの全てを自分の手柄にして生きる私の浅ましさに出遇いなおす。

自分の影を見せてくださったその故人はもはや、私にとって真実の姿を教えてくださった光だといってもいいのではないでしょうか。

 

この二度と戻らない最後の授業、疎かにはできませんね。

 

まもなく永代経です。

それぞれに思い出す人は違っても、その人生において一度は最後の授業を受けて来られたはずです。

 

同じ人間として、今共に生きる私たちが、慶運山長源寺という道場に集い、澤面先生のお話を通して朋なるいのちの世界に出遇いなおす道を再確認させていただきたいと思います。

是非、お参りください。

 

◎4月2日(日)午前10時~ と 午後2時~ いずれも本堂にて勤まります。

ご法話は 長浜市相撲町 淨願寺 澤面 宣了 師 です。

2017年1月 徒爾綴 / 修正会

2017/01/01 | 徒爾綴, 法要案内

正月は 冥途の旅の 一里塚

 めでたくもあり めでたくもなし  一休宗純

 

かの有名な一休さんは髑髏(しゃれこうべ)を棒の先につけて、新年早々家々の門口で、「ご用心ご用心」と叫んで歩いたことがあるそうです。

 

めでたいと浮かれていても、それも必ず終わる
今より若い時はなく、必ず最期は迫ってまいります。
そして、それがいつなのかわかりません。

 

私はウェブ上で予定管理をしているのですが、曜日や日にちの決まった仏事や行事は、自動的に繰り返し予定することができる機能があります。

 

ふと100年くらい先を見ると、やはりちゃんと報恩講や修正会が勤まる予定になっていますし、家族や友人の誕生日もありました。

 

一体いつまで生きるつもりなのでしょう。
便利で快適なものは、死を忘れさせます。

 

私はお正月で、数えの42歳になりました。まだまだ若いと言われますが、健康寿命でいえばあと何年家族と一緒に過ごせるかわからないのです。

 

でも、そういえば今までだって、考えてみたことがないだけで、命の保証などなかったのでした。

 

40年は本当にあっという間でした。
つまり、この先もあっという間なのでしょう。人生が過ぎ去るのは驚くほど早いです。

 

そう思うと、「理想の生活」や「しなければならないこと」に忙しく急き立てられるように生きる自分に疑問を感じます。

 

本当に幸せな人生の姿が、何かが思い通りになることや、経済的に豊かな生活を送ること以外に見えなくなっているのではないかと思うのです。

 

そんな中、昨年末ある聞法仲間でもあるご門徒さんの一言で、ハッとさせられました。

 

「宮尾くんあのな、この歳になると死を実感するんや。もっとちゃんと仏法を聴聞せなあかん。病院のベッドに縛られてからでは遅いんや。」

 

経済的豊かさや思い通りになる事に目を奪われる、そんな私の浅はかな有様に「ご用心」との呼びかけです。

 

乾いた喉を潤すように求める目先の快適便利な生活は、すぐに当たり前になり、また喉は乾きます。
そんな浮いた生活を繰り返し、突然目の前に訪れる死を前に、なす術もなく別れを告げなければならなくなるというのが厳粛なる生命の事実です。

 

どうか本年も、共に聴聞しお念仏いたしましょう。
本当に「生きる」ということを共に考えましょう。
何卒、よろしくお願いいたします。

まもなく修正会です。是非お参りください。

 

修正会

日 時 2017年1月1日(日) 午前9時 御始

場 所 慶運山 長源寺 本堂

みなさまのお参りを、こころよりお待ちしております。  釋 卓靜

2016年10月 徒爾綴 / 報恩講・秋季永代経のご案内

2016/10/09 | 徒爾綴, 法要案内

私たちの相手を想う「愛」の中味も

よくよく考えてみますと 自己愛(エゴ)そのものであったり

私たちの仏や神を信じるという「信心」の中味も

よくよく考えてみますと 我欲(エゴ)そのものであったりするのです

       藤田徹文

とあるご門徒さん宅で、メダカを飼っておられました。

お話によると、産卵が済むと、親とは離さないといけないのだそうです。

なんと、親が卵を食べてしまうことがあるのだとか。

 

そういえば、保育園で飼っていたハムスターが共食いをしていたことを思い出しました。

人だかりがあり、行ってみると一匹はお腹の部分がえぐられ、もう一匹は回し車でカラカラと運動をしているという、幼い頃の強烈な記憶です。

 

ふと、いのちというのは何ともエゴイスティックな一面があるのだと思いました。

 

また、ある母の日。先輩がお連れ合いに日頃の感謝の気持ちを伝え、これからも元気でいて欲しいと労いの言葉をおかけになったそうです。

ところが、お連れ合いからは、自分が元気でいないといけないのは、あなたが大変だからではないかと返され、言葉につまったそうです。

 

私たちが相手に望むあり方は、どんなに綺麗な言葉で飾っても、奥底では相手が自分の望む在り方で存在してほしいというエゴが見え隠れします。

 

どんなに大切な存在でも、その大切な理由は大抵、単に今、私が大切に思うことができているからなのです。

 

現に抱く愛情は本心でも、事と次第によっては大切に思えなくなるかもしれない私の日頃のこころを知る事によって、本当の愛や信心(まことのこころ)とは、一体どういうものなのかと、ようやく聴聞する準備が整うのかもしれません。

 

もうひと月で報恩講です。ぜひ一緒に聴聞し、共に考えさせていただきたいと思います。

 

報恩講

 ◎11月12日(土)

 13時30分 逮夜

 御俗姓 大阪 光照寺 日野廣宣 師

 ご法話 長浜 浄願寺 澤面宣了 師 2席

 18時   初夜兼お内仏御取越し

 御伝鈔 住職

 ご法話 米原 真廣寺 竹中慈祥 師 1席

 ◎11月13日(日)

  7時    晨朝

 朝御講(御斎をみんなでいただきます)

 10時    結願日中

 ご法話 米原 真廣寺 竹中慈祥 師 1席

秋季永代経

 13時30分

 ご法話 米原 真廣寺 竹中慈祥 師 1席

以 上