6月 20th, 2012

2012年6月の言葉について

6月 20th, 2012 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

Facebook上で「ことば」をお仕事になさっておいでの方から、2012年6月のことばの所感について、

「私の頭(思考)は、比較して上下、損得、善し悪しの中で非常に忙しく悩み、迷います。しかし、それに対して私の身体は思考における判断基準とは違う価値観で、ふと幸せを感じたり、嬉しくなったりする事があります。」

という所と、

 「出口の無い、苦悩のラビリンス(迷宮)に居る私たちの思考における『やるせなさ』『満たされなさ』が、今日を忘れた苦の生き様そのものなのかもしれません。ですが、それは同時に、仏道(という浄土への方向道)を歩めとの本願の促しであるともいえるのではないでしょうか。」
という所の間に何かあるのではないかとのご質問をいただきました。

 

さすが『ことば』をお仕事になさっている方です。図星です。

結びの文の前に

『私の身体は思考における判断基準とは違う価値観で、ふと幸せを感じたり、嬉しくなったりする事があります。』

とありますが、実は以前、人 (兄だった気がします) から勧めてもらった脳科学系の本を読んでいて、人間の脳を活性化させる為には脳がもつ、3つの欲求を満たしてやる事が大切だと書いてあった事が脳裏をよぎったのですが、文章が長過ぎると思ったのと、自分の中ではまだ不完全燃焼で、どの本だったのかも思い出せないので書くのをやめたのです。折角の機会ですので、無理を承知で続けます…

 

人間の脳で、満たすと活性化する3つの欲求とは、

1・生きたい
2・知りたい
3・仲間になりたい

 なんだそうです。

これを、仏教の言葉に置き換えると

 1・自ら仏に帰依したてまつる
2・自ら法に帰依したてまつる
3・自ら僧に帰依したてまつる

 さらに、日曜学校の『ちかいのことば』に置き換えると

 1・ほとけのこどもになります
2・正しいおしえをききます
3・みんな仲よくいたします

 という風になるのではないかと考えています。

 

3番目のというのは僧伽(サンガ)の事で、僧侶のみを指すものではありません。共に集い教えを聞く仲間の事であります。そして、僧に帰依するとは、その共に仏法聴聞をしていく僧伽を大切にしていく事であると聞いております。

そういう意味では、「3・仲間になりたい」に通じるのではないかと思います。

 

次に、2番目の法(正しいおしえ)について。教えと言えるものを聞くというのは、教えとして受け止めたものを聞く事です。教えとして受け止められなければ、教えとして耳を傾けませんよね。では、教えとして受け止められないものとは、何か。それは単なる人の意見ではないでしょうか。教えとして受け止められたものを聞き、そうであったか、と喜べるのであれば、それは欲求の「2・知りたい」を満たすものとして、意味が通じるのではないかと思います。

 

1番目の仏(ほとけのこどもになる)というのは、まだ私の中では不完全燃焼です。ただ、『いきいきと生きたい』という事と繋がるのではないかと思っています。

『私の頭(思考)は、比較して上下、損得、善し悪しの中で非常に忙しく悩み、迷います。』

と表現しましたが、私自身は自分を否定したり、ダメだと悲観したりする事がありますが、それでも私の身体は脈を打ち、お腹は空くし、風呂に入れば心地よいと感じ、叩けば痛いと感じます。つまり、身体そのものは素直に生きようとしてくれています。私が自分や自分の状況に失望しようとも、優越感に浸ろうとも、です。

そもそも、優越感とは、劣等感を知っているからこそ感じられるのです。また、劣等感を覚えるのも、今の自分の状態・状況が、自分の思うトコロと違うと感じ、納得できないからであって、それは、思う通りになったら感じることはないでしょう。

つまり、私が思う優劣・上下・損得の分別は、私(の思考)にとっては最重要問題ではありますが、私本来(身・いのち)にとっては、大した問題でもないのかもしれません。仏さんは摂取不捨(おさめとって捨てず)の大慈悲心で、衆生(生きとし生けるもの)を救う(拯う)とおっしゃっているのですから。

 

また、『それに対して私の身体は思考における判断基準とは違う価値観で、ふと幸せを感じたり、嬉しくなったりする事があります。』

という表現をしたのは、

 

凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず 真宗聖典P545一念多念文意

 

と言われているように、私は怒ったり、嫉妬したり、羨んだり、恐らく死ぬまで比較して忙しく悩み、優越感や劣等感を覚えて生きていくのでしょう。しかし例えば、子(孫)育てというのは損得でいえば、損な事が多いのに、辛くてもとにかく世話を焼き、その成長に無上の喜びを感じはしないでしょうか。

また、

・いがみ合っていた相手と和解出来た時

・仕方なくでも、進んででも手助けした事で『有難う』と一言いわれた時

・自分の過去の出来事を認める事ができた (過去が報われたと感じた) 時

・教えを聞いて、決して褒められも貶されもしないのに、深い内省が起き、気づけた喜びを感じる時

そういった時に、私たちは損得を超えて、何やら自然と嬉しいのではないでしょうか。

これを、

1・生きたい
2・知りたい
3・仲間になりたい

の3つが満たされた瞬間だと言うのは言い過ぎでしょうか。

つまり、そこから

出口の無い、苦悩のラビリンス(迷宮)に居る私たちの思考における『やるせなさ』『満たされなさ』が、今日を忘れた苦の生き様そのものなのかもしれません。ですが、それは同時に、仏道(という浄土への方向道)を歩めとの本願の促しであるともいえるのではないでしょうか。」

という所へと続きます。

 

これは、方向を見失ってはいないか、と言いたいのです。

先ほど子や孫という例えを出しましたが、子や孫にかける願いとは、勉強しろとか立派になれなんて思う前に、劣等感なんて感じなくていい、いきいきと生きてほしいと願ったのではありませんか。親となった人は、誰に教えられたわけでもないのに、かなりの確率で共通して思うようです。すなわちこれは、私にもかけられた願いではなかったのでしょうか。私たちは、かける願いに振り回されて、かけられた願いには振り向きもしていないのではないかと思うのです。本願という事とは質が違うのかもしれないと思うのですが、私が『やるせなさ』『満たされなさ』を感じているという事は、脳の3つの欲求が満たされていないという事だと思います。

言い換えれば、私自身の思考(優劣・上下・損得の分別)を信じ、目指している方向には根本的な救いがないという事を、この身が証明しているのだと思います。