2016年6月
6月 15th, 2016 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »人は気分でしか物事を考えることができない。
今月のことばはfacebook(フェイスブック)で見かけた一文です。
見ただけで、「ほんまにそうやな」と納得した記憶があります。
そのことを月参りに伺った際、あるご門徒さんにお話しいたしましたら「人間は感情の動物だからね」とおっしゃり、色々と例をあげてくださいました。
頼みごとをする時に、タイミングを間違えると引き受けてもらえなかったりすることや、気圧の高低差で外の天気だけでなく、心の天気も影響される様なことです。
確かに私自身、晴れ晴れとした青空をみると気分がいいことが多いのですが、天候が崩れると古傷が痛んだりして、体調も気分も晴れないことがあります。
体調がすぐれないと、いつもなら流せるような些細なことでも何だか気に障るということがあります。
そして、そういう時には、かならずといっていいほどイライラの原因を自分以外のせいにしています。決して自分のことは問いません。人のことばかりです。
こういうのを無明の闇というのでしょうね。
仏教では無明の闇と書いて我々の迷いのことを表現しますが、藤場俊基師は
「無明とは確信の感覚である」
とおっしゃいます。
つまり、闇といっても確信しているのですから、実際は明るいつもりなのです。何も見えていないわけではなく、全て分かっている、見えているつもりの状態です。
また、レディー・ガガ(米国・音楽家)が次のような言葉を言っています。
If you don’t have any shadows, you are not in the light.
(もしあなたに影の部分がないなら、それはあなたに光が当たっていないということ)
暗闇にいては、光の存在を感じることもなければ、自分の影が見えることもないのと同じです。光が差して初めて光と影の存在を知るのです。
ですから、自分の考えのものさしを問うとか、自分が気分で考えているかもしれないなどと考えてみるということがおこるはずもありません。
仏教はそういう私たちのことを別の言い方で
「罪福信」という迷いを生きている存在だ
と教えてくださいます。
簡単に言ってしまえば、自分に都合のええことが好きで都合の悪い事はいややということです。そして、その思いから出ることができずに、自分の思った通りの人生にならんかなぁと日々もがいているのだそうです。
都合の悪い事(悪い人)はいやです。だからいやな事(いやな人)は避けるために、自分の都合に合う理屈をこねくり回して回避しようとしながら生きてしまいます。
それでも、いやだと思った人が良い事をしてくれると「今まで悪かったな、これからは仲良くしよう」と思い、良い人だと思っていた人が都合の悪い事をすると、今までのお付き合いがどんなものであっても、「あんな人やと思わんかった」と嫌悪感を抱きます。
ものさしのメモリがコロコロと変わってしまうのです。
やはり気分で考えてしまっているのでしょうね。勝手なもんです。
そして都合に合わないことが続くと、「最近調子悪い」とか「もうあかん。神も仏もあるもんか」と悲観してしまうこともあります。
でも、こういう時の神や仏は都合(気分)に合うか合わんかの存在なんですね。もう畏敬の念なんてありません。
それほど勝手なのに、自分の気分や考えのものさしを見直すことはしないんです。
よく勘違いしてしまうのが、仏教は私たちが気分で物事を考える存在であると教えてくれてはいても、気分で物事を考えてしまう私たちのことをダメだと否定しているわけではないということです。
それでも「いい話」を聞くと私は「気分で物事を考えるのはダメだからやめて、理屈できちんと考えるようにしよう」と考えます。
なぜなら、良い悪いの分別ができるつもりである私は、何でもちゃんと見えている、ちゃんと知っているつもりです。だから、話を聞いて気付いた自分のこともしっかりわかっていて、考えた通りの自分になれるつもりで、何とかしようとします。
そんな「つもり」人生ですから、自分の人生が自分の思った通りになっていると「思った(感じた)」とたんに得意になるんです。
そして、自分の人生が自分の思った通りになっていないと「思った(感じた)」とたんに「もうだめ」なんです。
「もうだめ」なのは、人生ではなく私の気分であり、ものさしなのです。
私が私と言っているこのいのちは、私が考えて生まれてきたわけでもなければ、考えて生きているわけでもありません。私の考えを超えたところで生まれて生きて死んで行く人生です。私にどうにかなる程度のものではないでしょう。
そのいのちそのものを私の気分や考えのものさしで価値や重さまで決めるなんて、おかしな話だとは思いませんか。
聞法とは 私の「考え」の 物差しが 教えによって 問い返されること
池田勇諦
と教えられています。
良い気分のときも、そうでないときも、揺らぎながら共に聞法いたしましょう。