2017年11月
11月 16th, 2017 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »智に依りて 識に依らざるべし 親鸞聖人
最近、長浜では宗派の内外を問わず御遠忌を厳修されるお寺が徐々に増えつつあります。
真宗大谷派長浜教区でも2019(平成31)年5月には御遠忌が厳修されます。
そしてもちろん私たちの道場である、この長源寺でも2020(平成32)年の4月にお勤まりになります。
約50年振りです。前回は1968(昭和43)年に厳修されたそうです。
まだまだ時間があると思っておりましたが、「そろそろ実行委員会と具体的な計画を考えながら、準備を進めなくてはならない」という話が役員会でもありました。
それにしても、なんでこんなに手間もお金も時間もかかる大変なことをするのでしょう。それも約50年毎に。
年に一度の報恩講でも大変なのに。
今月の言葉は「智に依りて 識に依らざるべし」という親鸞聖人のお言葉です。
私は日頃、聞法したり、本を読んだり語り合ったりして仏さんの智慧に触れる機会をいただいておっても、気付けば教えよりも、聞いた自分の知識や経験を頼りとしてしまいます。また、無意識にそのことをもって安心しようとしたりします。
これって、識に依るっていうことですよね。自分の知識や教養、経験を頼りとし、手柄とする私の姿はつまり、智に依らず、識に依る姿です。
教え(智)によって気付かされた事をも経験や知識(識)という手柄にします。
気付く経験をしたら、経験する前よりも成長したと考えます。
辛かったことやしんどかったことなら尚更、こんなにもやってきたとばかりに頭は下がらず、上がる一方です。
経験していない純粋さを拝むよりも、小賢しい知恵者を目指す、教えと真逆の私なんですね。
だからこそ年に一度、日常の雑事や生業の手を止め、身を据えて聴聞させていただく事で、どうにか私の日頃のこころを確認させていただきます。
準備から後片付けまで大変です。日常生活・経済活動の手を止めて、手間をかけないといけません。
しかし、経験し知識を蓄えようとする癖のせいで、年に一度の報恩講にも長年の「慣れ」が生じる事があります。
年間で一番大きな法要・法座で教えに触れても、得手に解釈し、また日常の雑事に沈みゆく私の為に、「手を止めよ、立ち止れ」と50年に一度の盛大な御遠忌という形にしてまでお伝えくださったのだと思います。
そうまでしないと立ち止らない私です。
どこまでも我が能力、経験、考えを頼りとして握り締め、「せねばならぬ用事」に忙しく流転します。
聞いて頷いてもすぐに忘れ、日頃のこころに埋没する私の浅はかな有り様を、まるで水を蓄えることのできない籠やザルのように譬えられます。
それをうけて蓮如上人は「その籠を水に浸けよ」と仰いました。
※蓮如上人御一代記聞書 聖典871頁
日々流れ行く中、一旦立ち止り手間をかける事で、どうにか法水に浸からせていただき、ようやく日頃のこころを確かめることができるこのご法縁です。
あらためて、大切にお迎えしたいと思いました。