2019年6月
6月 1st, 2019 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »間違いのない集団は 間違いを認めない
間違いのある集団の方がいいんだ 瓜生 崇
教区御遠忌にかかりきりになり、掲示板のことば(寺報)を2ヶ月間おやすみいたしました。大変失礼いたしました。
先代住職が還浄した今から13年前の2006年6月。あの頃はこの寺報のように「もう無理」とは言えず、本当にしんどかったです。
苗字が変わり、引越し、娘の進学、転職、葬儀、継職、他にもお世話になった方がお亡くなりになったり、お祝い事もあったりと、色んなことが一気に重なった1年でした。
短期間にガラリと環境や立場が変わり、悲しい事や嬉しい事が交互に訪れるような日々で、ついていくので必死でした。何とかしてこの状況が「普通」の事にならなければならないと思い、無理やり普通の日常を送ろうとしておりました。
あの頃の写真を見てみると、オンとオフでは表情が違い、遊園地で娘とジェットコースターに乗っている楽しいはずの表情も無表情でした。
当時、そんなつもりはありませんでしたが、実は私は潰れそうになるのを必死で堪えていました。何とかなりたい何とかしたいと思いつつ、何ともならない状況に苦しんでいました。
最近ふとした事から、当時心配する坊守から言われた言葉を思い出しました。
「あなた、最近何だか嫌な雰囲気のお坊さんになってきてない?大丈夫?」
私は間違いのない、ちゃんとした住職になろうと必死でした。
その理想というより虚像ともいうべき姿に近づく為に、私は虚飾に満ちた泣き言を言わない立派な僧侶を演じていたのです。
間違ったらすぐに謝罪・修正して二度と繰り返してはいけなかったのです。
そうして一生懸命に努力する事の正しさを信じて行動するうちに、多くの助言に耳を塞ぎ、間違いを認められず「ちゃんとした住職」を演じる事をやめられなくなって行ったのでしょう。
自分も苦しかったけれど、周りも苦しめていたとは知りませんでした。
そうと知らされ「もうそんなことはしない」と心に誓っても、今度はまた間違いなく「そんなことはしない人間」という虚像を真面目に追うのです。
教えや誰かの言葉に気付かされても、また同じ事を繰り返します。
間違いのない確かな人生を求めるということは、実は自らの不確かさに怯えている証拠です。
だから余計に自分の努力や苦労を正当化しながら、分別のある人間として自分や他人をその時の評価で裁いていくのです。
今月のこの言葉から気付かされるのは、13年間、相変わらず何を聞いても、お念仏申しても自力が廃らず阿弥陀さんにお任せする事もできない矛盾した、あの頃のままの私でありました。