2020年4月
4月 13th, 2020 Posted in コトバ | no comment »討論(debate)は、話す前と後で考えが変わった方が負け。
対話(dialog)は、話す前と後で考えが変わっていなければ意味が無い。平田オリザ
先日同席した、訓覇浩師と宮戸弘輪番との対話の中で紹介された言葉です。
その際、次にある鷲田清一師の文章もご紹介いただきました。
「対話は、共通の足場をもたない者の間で試みられる。呼びかけと応えの愉しい交換であり、吐露と聴取の控えめな交換であり、埋まらない溝を思い知らされた後の沈黙の交換でもある。討論より恐らくはるかに難しい」
朝日新聞『折々のことば』
私は日頃、人との「対話」無くしては営み辛い生活環境にいますが、この言葉から思いを巡らせると、私の日常には「対話」と呼べる様な物は無かったのではないかと思い至りました。
対話に際してどこかで「共通の足場をもっているわけではない」と考えている様で、実は「ある程度共通の足場をもっている」と思い込んで話をしています。
また「呼びかけと応えの愉しい交換」というのも、自分の「呼びかけ」に対して「期待する応え」のあった時にしか感じていない様に思います。
さらに、相手との間にある「吐露と聴取」はとても控えめとは言えず、一つ間違えれば討論になってしまいます。
そして「埋まらない溝を思い知らされた後の沈黙の交換」ではなく、「埋まらない溝に絶望」しているのが実際の有様だと思います。
なるほど、対話は討論より遥かに難しい。
相手の意見をきちんと受け止めようとする態度決定がなければ対話は成立しないんですね。
つまり、相手の見解に対する「敬意」と自分の見解に対する「迷い」が対話を生み、結果的に私の人生そのものを広く、深く、豊かにしてくれるのではないかと思いました。
仏教も単に釈尊という一人の覚者がいただけではなく、その覚りの内容が対話を通して受け止められた時、「教え」として成立してきた歴史がある様に思います。
藤場俊基師はいつも「座談力は聞法力」だと教えてくださいます。
対話を通して何を聞き取り、何を聞き漏らしていたのか、何に響いて何に響かなかったのかわかるとお話くださいます。
つまり、聞法は自分の納得に埋没してしまわない為にも、聞いて終わりではなく語り手と聞き手、あるいは聞いた者同士が互いに「対話」する事が本当に重要なのだと改めて感じました。
お寺本来の姿は、一方通行の仏教講演の場ではなく、語り手と聞き手や聞き手同士の「対話」によって教えが語り継がれる場なのでしょう。
しかし、コロナウイルスの影響で人との接触が制限される今、なかなか対話はかないません。
本や動画で教えに触れる時間を作りつつ、家族と語り合いながら、思索していく時期と受け止めていくしかないのかもしれませんね。