5月 10th, 2020

2020年5月

5月 10th, 2020 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

他人の意見を聞こうとしないこれを我慢といい

 自分の意見を聞かそうとするこれを憍慢という

 

同朋学習会のご講師である瓜生崇氏が「なぜ人はカルトに惹かれるのか」という本を上梓されました。

瓜生氏はその中で「マインド・コントロール」について触れる際、ある本を引用し「パラダイム・シフト」という言葉を紹介しておられました。

それは、前提としている認識や法則(パラダイム)によって説明がつかない事象が累積すると、それらを合理的に説明できる新たなパラダイムによって置き換わり、その後は新たな法則を前提とした、問題の解決や事象の説明がなされる事を「パラダイム・シフト」と表現するとの事でした。

そして、その前提が変わるような、自分自身の中で掴んでいた「常識」や「正しさ」が転換(シフト)するような出来事、つまり絶対化していたものが相対化されるような経験があるという事です。

確かに、似たような経験は誰にでもあるのだろうと思います。
例えば、幼い子供が「なんで」「どうして」を繰り返すと、大抵大人は「そういうもんや」と嗜めます。そうして思考する事をやめて受け入れる(納得しようとする)事を繰り返す内にそれが刷り込みとなり、いつしか「そういうもんか」と世の中をわかった様な気になるのですが、何かをきっかけに再び考え始めるような経験です。

「周囲の意見」という刷り込みは至るところである事です。実は世代間ギャップというのも刷り込まれた時代感覚の違いなのかもしれませんね。
また、世の中でも戦前・戦後、あるいは震災以降どれほどの「パラダイム・シフト」が起こった事でしょう。
新型コロナ騒動の後にも起きるのだと思います。

私は、本質的に自分や自分の将来に対して不安であるため「正しさ」や「確かさ」には弱く、自分にとってそう見える考え方や言葉や物を見ると、つい自分のものにしたくなります。
しかし実は、そうやって得た視座や判断力がそれほど間違いではないだろうという思いは「今までやってきた」とか「たくさんの失敗をして学んできた」という経験を掴んでいるだけなのかもしれません。

本当の確かな「教え」というのは、迷いに対して誰かから確かな答えを与えられるものでも、自分の思いで掴み取るものでもないのだと思います。また、確かな存在になろうと背伸びをしたり、意見の異なる他者の不確かさを咎めたりするのでもないのだと思います。

それよりも、私自身が本当は不確か(諸法無我)な存在であるという事、そして全ての事柄が不安定(諸行無常)であるという事実を正確に知らしめてくださるものを確かな「教え」というのでしょう。

玉光順正氏は「浄土とは一切の物事を相対化する原理」と仰います。
常に自分の「納得」や「経験」こそが確かだという思いを握り締め「我慢」と「憍慢」を行き来する私は、繰り返し教えに解放され続けなければ、その思いに嵌まり込んで動けなくなるのだと思います。

コロナの影響で仕事や生活のリズムが変化する事で、いかに自分が「ねばならぬ」と身動きが取れなくなっていたのか実感させられます。
先の事は分かりませんが、迷いながら教えに聞き、考え続けていきたいものです。