2023年5月
5月 23rd, 2023 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »「信火内にあれば行煙外にあらわる」
内に火があれば煙が外に出るにきまっておる。
暁烏 敏
先日、兵庫に住む両親や兄弟姉妹家族とキャンプをしました。テントで宿泊した翌朝、樹々の葉が擦れる音と鳥たちの鳴き声が響く中、朝早く起きる父と私は焚火をしながら色んな話をしました。
昔の朝の仕事は火をおこすことから始まったのだそうです。その言葉通り父は、新聞紙一枚と木片であっという間に火をつけてしまいます。中でも生活習慣の変化によって受けた恩恵と酬いの話は印象的でした。しっかり根を張る雑木林を無くして根の浅い売れる木ばかりを植えたことが影響して土砂災害が増え、花粉も多くなったことなど、父からすれば当たり前の事で、私からみたら驚くことを沢山教えてもらいました。
私の眼は電気やガスで簡単に火がおこれば便利でいいという発想です。それは「根元」より上の目立つところだけを見て、単純に便利だの快適だの、自分の都合で生きる眼です。
焚火を前に語る父の眼は、便利なことは結構だが、快適さや目先の都合ばかりを求め、自然と人が循環するような営み全体の大きな流れを見失った生活の危うさを見つめているようでした。
コロナで見直せたものもあれば、見失ったものもあるように思います。今や私達が簡便さを求める勢いは想像以上に加速しているように感じます。「煩悩を原動力にしたものは回復しやすいが、煩悩に立ち向かおうと大切にしてきたものは回復し辛い」とは訓覇浩先生のお言葉です。
仏事でもそれ以外のことでも「簡便さ」は快適で理想的なカタチとして目に映ります。しかし簡便であるということは手をかけないということです。手をかける必要がないということはとても楽ですが、同時に経験を失います。
仏教には「解学」と「行学」という言葉があります。聞いて学ぶことと同じくらい、行ずることがとても大切だと言われます。
教えを聞き、その教えを身に行じようとした時に初めて見えてくるものがあるのです。
学生の頃「ええからやってみろ」とよく言われたことを思い出します。いくら考えて理解を深めたとしても、やはり経験には敵わないのです。
末燈鈔(真宗聖典603p)では『文沙汰(ふみざた)して、賢々(さかさか)しき人のまいりたるをば、往生はいかがあらんずらん』と自分の頭で思い得た視座で色々なことを批評し、行ずることがない人の往生はどうだろうか、と法然上人が疑問視していらっしゃるお姿が記されています。
仏法聴聞して「わかった」「知り得た」と思った時、無意識のうちに敬意を失い、仏法(仏事)が分かった人間として、仏法(仏事)を自分の理屈で利用してしまうことがあります。
内で何を大切にしているかは外に出るものです。
自分の理解に教えを当てはめて納得するのではなく、お念仏申しつつ先達が私たちにまでお伝えくださったその願い(根元)が「聞こえてくるまで」一緒に聴聞しましょう。