2018年6月
無明とは確信の感覚である。藤場 俊基 師
先日、日本大学アメリカンフットボール部の選手が危険なプレイをして、相手チームの選手に怪我をさせてしまった件が世間を騒がせています。
そんな中、怪我をさせてしまった選手が自らの非を認め、悔い、改めて関係者と相手選手に対して謝罪と事の真相を伝えようと会見を開きました。
日大選手が行ったことはとても悪質です。
ところが、会見での姿勢と誠実な答弁に共感したという方が大勢いらっしゃいました。
それはきっと、この件を日大だけの問題でなく、日本の縮図であるとご覧になったからではないでしょうか。
人は組織(周囲)から追い込まれると、自分の思いに蓋をしてしまう事があると思います。
そうして組織とそれに従う自分を肯定しつつ周りに合わせて、何事もなかった平穏な日常であるかのように振る舞おうとします。
ところが実際は自分を誤魔化している状態なので、上手く思考は定まらず、振り返れば何故そうなったのかも分からない様な失敗や間違い、軋轢が生じてしまう事があるのでしょう。
自分の生きる組織や環境によって、大なり小なり正しさの尺度が狂う事は誰にでも起こりうる事で、別に珍しい話ではないと思います。
とは言え、どの様な場所であっても絶対的な立場であったり、いつも周囲に忖度を迫るような圧力がある状況というのは大変危険だと思います。
なぜなら、心に沸き起こってきた不安や迷いと向き合わせずに、蓋をさせてしまう事があるからです。
以前先輩から本願とは輪ゴムのようなものだと教えていただきました。
輪ゴム本来の形を自力で周囲に合わせて引っ張り形を変えようとしても、手を離せば元に戻ります。
その輪ゴムの様に常に元の姿に戻ろうとするのが本願のはたらきであって、一生懸命頑張っているはずなのに何だか空しく満たされず不安なのは、私の根底から本願が、いのちの叫びが突いているのであって、元のいのちの形に戻ろうとするのだというお話でした。
何事も考える必要を感じないほどに上手く進み、日常の細事に流される中で、一旦立ち止まって確かめるという事がなくなったら要注意かもしれませんね。
もしかしたら、圧力をかける側か、受ける側になっているのかもしれません。
間違いないはずだと根拠のない確信を抱きつつ道を踏み外す私の有様を「無明」であると照らし出す確かな教え(道しるべ)によって、ようやく目印の無い人生に於いて、向かうべき方向を賜るのだと思います。
時に揺れ、時に迷いつつもその道しるべに導かれながら生きる道を「仏道」と呼ばれたのではないでしょうか。
多くの先達も歩まれた道です。
日常は忖度の連続です。
しかし、そんな中でも道しるべをたよりとして、自ら考え、勇気をもってこの道を往けと背中を押されているように感じています。
お念仏申しつつ、共にこの娑婆の縁尽きるまで参りましょう。