2018年7月
「おかげさま」と言える人生に孤独はない
「おかげさま」この言葉はよく口にする言葉ではありますが、おそらく日常では挨拶のように口をついて出ている言葉ではないでしょうか。
先月9日、「おかげさま」で前住職・瑞華院釋尼惠香(宮尾惠美子)の13回忌をお勤めさせていただきました。
ご門徒をはじめ多くの方がお参りくださって、素晴らしいご法事をお勤めしていただけたと感謝しております。
よくご法事をお勤めして「やれやれ」と思ってはいけないと言うお話を聞きます。
ところがやはり「自分の苦労や努力」を誇っているかのように「やれやれ」と思ってしまいました。一体誰のための仏事であったのでしょうか。
実は今回のご法事直前はいつも以上に慌ただしいものでした。途中親戚やご門徒のお葬儀など色々突発的な事もあって、どうにも考えることやることが多かったのです。
夫婦一緒に作業をしている余裕もありませんでしたので、時間に追われるように、黙々とそれぞれができることをやっていました。
当日を迎えても、お参りの方や出仕の僧侶方が気になります。また、次第やお荘厳に不備はないか。
お下がりは、お料理は、お酒は、挨拶は。
まだまだ心は落ち着きません。
そして御斎(おとき)の席でお酒もいただき、ようやく少し落ち着いてきた頃、ふと気付かされたことがありました。
あれやこれやと用意をして大変ではあったものの、お参りの方がおられなかったら、このご法事は成立しなかったわけです。お導師や法中さん、外陣方のみなさんがご出仕くださらなくても、親類や家族の協力がなくても成り立たなかったのです。もちろん料理屋さんなどもそうです。
どなたが欠けても絶対にこのご法事は今回のように勤まることはなかったのです。
心のどこかで自分一人の大変さ、自分のやったことを手柄にして、「やれやれ」などと口をついて出る私です。
今回のご法事は、実は一人では何もできないでいる私が、「おかげさま」のど真ん中で自分の役割を勤めさせていただいただけであったと気付かされる機縁でもありました。
普段の「挨拶」では感じきる事ができていなかった「おかげさま」を、改めて実感させていただける時間でした。
本当にありがとうございました。