2018年8月

はてさて困ったことには
知っていることは何の役にも立たず

肝心のことは何も知らない

ゲーテ『ファウスト』より

 

寺報に書くべき内容が思い付かず悩んでいました。
(ここに書いている事は寺報としてご縁のある方にお配りしています)
しかし、「書くべき内容が無い」という事は、「書くべき」事があると思っているという事です。
多くの方の感想に一喜一憂するうちに、寺報に対して「こうあるべき」という思い込みが出来ているように思いました。
本当は何でもいいはずなんです。この文章のタイトルが「徒爾綴」(いたずらなさま。むだなさま)なんですから。

そういう意味では、もしかしたら自分のやってきた事全てが思い込みではなかったかと思わないでもありません。

今までのあらゆる仕事、あらゆる用事が「これで良し」「こうあるべき」と自分がイメージし、納得できる形での行為でしかなかったのかもしれません。決まりのないところに「前例」という決まり、スタンダードを作り続けているように思います。

その思い込みがたまたま周りの方々と合致すれば褒められやり甲斐を感じ、合致しなければ思うようにならない虚しさを感じる。ただそれの繰り返しであったのかもしれません。

そうして40年以上、色んなことをして生きてきましたが、「肝心のことは何も知らない」のです。

いつも新しい執着、自分の納得を探していつまでも迷っているのです。

教えを聞いても納得できれば有難がり、納得できなければそっぽを向く。
人間関係も仕事も何もかもその調子です。
自分以外の確かなものを求めていても「自分の納得」が判断基準なら、それは同じ事の繰り返し。到達点はいつも出発点なのです。

「空過(くうか)」という言葉があります。
「ボーっと無駄に過ごすこと」かと思っておりましたが、先生には「空過とは気忙しくやるべきことに追われている状態のことで、その時が過ぎてから空過したと気が付くのだ」と教えていただきました。

つまり求めるべき肝心な事を知らないまま、いつも自分の納得だけを探し求めて、常に不満や不安を抱えながら忙しい忙しいと同じ所をグルグル迷う、そんな人生を「空過」というのでしょう。
どうしたらいいのかわからない者がその場その場で納得する理由や根拠なんて、掴んだ途端に色褪せるものです。

人生において輝いて見える魔法のことば「意義・価値」もそうなのかもしれません。

「私」から見出す「意味・意義・価値」は、結局私の考えそのものなので、状況や嗜好が変わればすぐに吹き飛ぶようなものです。
そこに確かな救いなどないのでしょう。
繰り返し教えを聞き、本当に願うべき事、求めるべき方向を賜りながら、私の人生の現在地を確かめつつ歩む他ないのだと思います。

This entry was posted on 日曜日, 8月 19th, 2018 at 11:03 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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