2018年9月
各自相互に自覚する外に和合の道はない
曽我量深
最近は、パワハラやセクハラなどの報道がメディアを賑わしています。
ちょっと食傷気味です。笑
実はこの〇〇ハラという言葉、パッと聞いただけでは分らないようなものも含めると、30〜40種類もあるのだそうです。
例えばヌーハラ(ヌードルハラスメント)は麺類を啜る時の音が不快感を与えるので慎むべきであるとか、エアハラ(エアーハラスメント)は空気を読めということです。また、カシハラ(お菓子ハラスメント)は特定の人にだけあげなかったり、旅行のお土産を強制したりする事だそうです。
どうも何にでも「ハラ」をつけすぎているような気がするのは私だけなのでしょうか。
事情は様々ですが、近頃は間違いを犯してしまった人を寄ってたかって非難することで、公の場で罪を認めて謝罪する事を求めているように見えます。そしてそれについて飽きるまで、または次の標的が見つかるまで噂をするような報道が多いように感じています。
しかも、その後については報道しない事がほとんどであるという、ある意味公開処刑です。
ハラスメントとは嫌がらせ、いじめ、個人の尊厳を傷つけたり、脅威を与える行為を指します。
自らを絶対的な善とした時、人は暴走を始めてしまう事があるという良い例ではないでしょうか。
人は善や正義の側に立って他者を非難している間は、自らの見直すべき箇所を見失いがちです。そうして正しさが凶器となり、誰かを窮地に追い込んで傷つけても平気でいられるのです。
もちろん話し合う事はとても大切です。しかし、度が過ぎるとハラスメントと変わらない状況になり、間違いを犯してしまった人の尊厳や人権はいとも簡単に踏みにじられてしまいます。
ジャーナリストの故・むのたけじさんは「他に服従を強制するものは、そのもの自体が必ずなにものかの奴隷である」とおっしゃいます。
ならば私はすでに「正しさ」や「世間」「空気」の奴隷であると言ってもいいのかもしれません。
そして私が思う「正しい世間」や「空気」はどこか偏りが強いに違いないのだろうと思います。
なぜなら、誰かが排除されたり悲しんだりする事があるような正しさは、本当の正しさだとは言えないと教えられたからです。
必ず自分に義を立てる私は、実は誰の事も正確には裁けないのです。
各自相互に仏法に我が身を知らされる事で、やっとその過ちに気付く事があるだけです。
それはつまり私は今後も他者と共に、繰り返し知らされ続ける必要があるという事に違いないのでしょう。