2019年9月
身は本願の中にある。
心が妄念妄想している。 安田理深
「寺離れ」「宗教離れ」「仏法離れ」という言葉をよく耳にするようになり、「これからどうするのか」とよく言われるようになりました。でも、お寺や仏法の未来が危ぶまれたのは、何も今に始まった事ではないのではないかと思います。
ちなみに今回、仏法やその聞法道場(お寺)が存続するかどうかを問題とし、住職家族の生活問題や寺院そのものの運営方法とは分けて考えます。
先ず、私たちは本能的にエゴイスト(自己中心主義・利己主義)であって、それでも他者との関係を支え、社会に適合するようにしているのは道徳心や理性であると考えます。
またお寺というのは、その縁ある他者と共に仏様の教えを聴聞し、お念仏に出遇い、自分が人間らしく、何を大切にしてどちらを向いて生き、いかに来たるべき死を迎えるのかを考える道場であると思います。
阿弥陀さんの教えを通してエゴイスティックな自分を知らされ、その知らせてくださるはたらきによって文字通り人の間を生きて死んでいく「人間」となっていく。そういう歩みである様に思います。
なので、本質的には仏法というのは私のエゴと相反するものであるとも言えるのだと思います。
ということは、「寺離れ」「宗教離れ」「仏法離れ」というのは、ごく自然なことであると思います。
今までもお寺参りは嫌だという人は多かったでしょうし、今後もある程度おられると思います。
基本的に私の都合に合うものではないので、入り口としては「仕方なく参る」とか「仕方なく法事を勤める」という風になりがちです。
しかしその教えを聞く中ではたらき(光)に触れ、自身のエゴイズムの影を知らされたならば、それ以降はどの様な生き方になっても、もう看過することは難しくなると思います。気になるのです。
しかしもちろん、お寺の維持管理の問題や、存在理由が見失われたりすれば、いつでも「お寺」は変化、または消滅の危機に晒されるでしょう。
私の場合は周囲の方々にご法事やご法話を頼まれる事で、背中を押される様にして仏様の教えや聖人の歩みを聴聞し始めました。そして、いつの間にか仏法に触れて生きたいと願い、同時に聞いた教えを共有したいと思うようになりました。
つまり私を歩ませるのは、私の意思ではなく他者(僧伽)であり、仏様の教え(智慧)です。
なので私が私の思いによって見失う(離れる)事はあっても、仏法が無くなることは決してありません。
「仏法」は「はたらき」です。
私の心の状態や生活状況がどうあれ、今現在も世界は本願のはたらきに満ちているのだと思います。
そして、私はその事を頼りに歩みを進める他ないのだと思います。