2020年3月
(2020年3月分)
世の中ままにならぬ、あてにならぬ、無我・無常がゆえに。
清沢満之
今、新型コロナウイルスの影響で世の中が思いもしなかった事態に陥っています。
長源寺も「あとひと月で御遠忌」と思っていたところ、臨時役員会で御遠忌は2021年4月10、11日まで延期と決定されました。
移動手段の利便性が上がった現代は、結果的に感染力の強いウイルスが移動するにも非常に便利な世の中になってしまいました。
法座を延期したり中止したりするお寺も多くあります。そんな中、それは「みんなの健康を考えて」と言ってはいるものの、本当は世間の評判を恐れているのでは無いかという厳しい意見もちらほら見受けられます。そして、このような中でも法座を開いたり法要を営んだお寺に称賛の声が上がります。しかしひと度何かあると一転します。
高齢者や基礎疾患のある方は重篤化しやすいと言われたり、場合によっては脳炎を起こす事もあると言われたりしています。
実際このウイルスの危険性はまだまだわからないそうです。また、治った方が数年後に無事だという保証もありませんので、月並みですが多くの意見を参考に、きちんと手洗いうがいで予防しつつ、長距離間の移動がある予定や行事はとりあえず中止して様子をみる事にしました。
しかし最近になって、お寺は密閉空間では無いので御遠忌ほど密集しない法座やヨガは、席を間引いたりそれぞれ体調に注意したりしながら開催できそうだと思い至りました。でも正直、私には何が正しいのかわかりません。
「世の中ままにならぬ、あてにならぬ、無我・無常がゆえに」とは清沢満之師の言葉です。
私自身、何に対して不安になっているのかと思いを巡らせば、人生が自分の思い通りにならないのでは無いかと不安になっているのかもしれません。
ウイルスという、私にとっては思いもしなかった厄介な存在の為に、あてが外れてしまったのです。今までたまたまやってこれたこの人生のあてが。
しかし、あてなんて初めからなかったはずです。本来ならいつどうなるのか保証も無いのがこの我が身です。それを忘れて、未だありもしない未来に思い通りの人生を思い描き、あれこれ画策しながら「予定表の人生」を生きて来たという事に、今コロナ騒動から教えられている様に思います。
諸行無常、諸法無我。いつの時代にあっても、言い続けられた真理の言葉を「知っている」「古臭い」と、輝きを見失うのは私の方なのでしょう。