2020年6月
他人の人間性を無視すれば
必ず自らの人間性も失っている 和田 稠
人間性といえば、「コロナ禍でも日本での死亡率が低いのは、民度の違いだ」と仰った政治家の方がおられます。
お願いをしただけで罰則もないのに国民自ら自制し、耐え忍んだから国民性がいいのだ、と仰りたかったようです。
確かに、お互い気を付けあってコロナを蔓延させないように自粛しているのは間違いありません。
しかし同時に、
「コロナになったら、何言われるかわからん」
「一番最初には罹りたくない」
ともよく耳にします。
これは国がお願いしたからとか、国民性がいいからという理由よりも、自粛していなかったと思われたり、周囲に感染源だと言われるのが嫌だから「一番最初には罹りたくない」のでしょう。
もちろん、軽はずみな行動で罹患して責められても仕方ないかもしれませんが、頑張って自粛していても、感染する時にはするのです。
そもそも、罹りたくて罹る人なんてほとんどいないと思います。
それでも責めるのは、自分もみんなと同じように頑張って我慢してるのに「けしからん」とストレスをぶつけているのか、あるいは自分が優等生だという根拠を他者の失敗に見出そうとしているのかもしれませんね。
ふと、私にはそんな心はないだろうかと顧みると「ない」とは言えないのです。
ニュースを見て「あほな事しよったなぁ」という時、私は「あほな事をしない人」のつもりです。間違いを犯さない、善良な市民という一段上に立って目の前の情報だけで人を裁くのです。
人を善悪で軽はずみに裁く時、私はその人を「一人の人間」としては見ていないのかもしれません。また、人を立場や肩書きで見る時「こうあるべきだ」と裁く傾向はさらに顕著になります。それこそ、人間性を失っている姿なのでしょう。
縁ある他者を自分の「思い(考え)」で見定めたつもりになり、それを「信頼」と呼び、その「思い」と違ったと思うやいなや、信頼を裏切られたと感じて落胆し、途端にその他者を裁いて切り捨てるような冷たい心を持っているのです。だから自分も切り捨てられないように、迷惑をかけないようにと気を使って疲れるのです。
それはつまり、私が見た世知辛い世の中の暗さというのは、実は世知辛い私自身の暗さでもあるという事です。
そして、その事を知らせてくださるハタラキを「光明」とか「教え」とかと呼ぶのではないかと思います。