2020年10月

邪道というのは 自分を固める道です

宮城 顗

 

お参りに伺った門徒さん宅で「たまには気楽に読めるような、もうちょっと優しい寺報書いてよ」とお願いされました。なるほど。自分の中では難しい文章を書いているつもりがなかったので、この視点はありませんでした。

また、ある寺院葬儀の際、葬儀社さんから葬儀での「気配り」についてご助言いただいた事もあります。
この時も「なるほど」と目から鱗でした。

それなりに経験を積み色々とわかる事が多くなると、その知識や経験で答え合わせをして、自分の考えに合う結論を握るという事があります。
そして、それで見えなくなっている視座があるなんてあまり考えなくなってしまう事もあります。
なんだか矛盾しているようですが、知っている事が却って知らない事を見えなくし、わかっていると思っている事が、それ以上思考する事をやめさせるのです。

人は皆、目立って個性的でなくても、個人個人違います。
男女もLGBTの方もそう。夫婦も親子も兄弟姉妹も、みんなそうです。
職業とか年齢とか国籍とか、多少似た部分はあっても、また、生まれ育った環境も違うし、内側に色んな立場を内包しているので「同じ」はないのです。
私にしても、住職、夫、父親、次男、年代、職場での役職、、、色んな視座を自分の内に抱えています。
誰しも、色んな立場を誰かから賜り、複雑に絡み合った視座で、各々自分の価値観を抱えているのです。
これは互いに聞き合わないとわかるはずがないという事です。

とは言え、目の前の人と自分との関係性によっても語る内容や表現は異なるものです。
つまり、聞いたとしても、完全にわかる事などないのです。

そういう意味では「わかった」「わかりあえた」と思ったら要注意ですね。
自分から見えた印象で相手を縛り、固めているのかもしれません。
そして、そんな時ほど相手は置き去りです。

蓮如さんは「物は言え言え。物をいわぬは恐ろしき」と仰います。
表立って物を言わんのは、何考えてるかわからん、と。
語り合う事を通して自他共に「心底もきこえ、また、人にもなおさるるなり」と仰います。

これは日頃、自分を固めていく事に余念がない私の事を仰っているのです。

そういう私は仏法を聴聞しても、どう聞いたのかを互いに語り合わないと、得手に聞いて「自分の考えを固める」ような生き方になりかねないという事です。
これは見聞きするもの全てに通じる事だと思います。
そういう意味で、今回のご助言は寺報のみならず私自身を問う機会をいただいたと、有難くいただいています。

This entry was posted on 土曜日, 10月 31st, 2020 at 18:07 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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