2020年12月

日ごろのこころにては、往生かなうべからず 歎異抄

 

コロナでおろおろしている間にもう年末です。
私の都合などお構いなしに季節は移り変わります。

日頃は「こう言うもんや、ああ言うもんや」と教えられ「これが正しい、あれはあかん」と取捨選択しながら生きていますが、全ては自分の都合と言う物差しによる世界観に他ならなかったのだと振り返っています。

 

私は平素、長浜別院で儀式と法座を担当させていただいています。
そんな事もあってか、儀式と仏法聴聞とは一つのものだと考えています。

聴聞とは阿弥陀様のおすくいのいわれを聞く事です。儀式を通じて教えに触れ、法座で聴聞し、その事を互いに確かめ合うのです。

そして仏法聴聞するとは、そのまま阿弥陀様の信心をいただく事なのです。信は「まこと」と読みます。信心とは信じ込む事ではなく「まことのこころ」を言うのです。阿弥陀様の「信心(まことのこころ)」をお聞かせいただく時、見えてくるのは「日頃のこころ」です。日頃のこころとは、自分の都合という物差しによる世界観で人生を生きる私の事です。

 

今年はあらゆる法要が規模縮小にて執行されました。
役員会でも「ごえんさん、今年だけは仕方ないで」と私をなだめるように話し合われました。

最初のうちは「大変やな。でも仕方ない」と思いましたが、準備が進むにつれ「今年はいつもより楽な日程やなぁ」という思いが沸き上がって来たのです。
何が正しくて、何が大切なのかという事とは別に「日頃のこころ」という恥ずかしい私がいつでも蠢いているのです。

 

常々、丁寧な儀式執行のためにお稽古をします。
しかし、どんなに正しくて素晴らしい事をしていても、日頃のこころは厄介です。積み重ねた苦労や努力、蓄えた知識を手柄にするのです。他力の教えを表現しようとする儀式をも自力の姿に変えてしまいます。

また、仏法を聞いていても同じ事をするのです。自分で聞いて理解して、確かな存在となって、しっかり歩んで行けると思っているのです。これは仏法を利用して自力で思い通りの人生を生きようとする、阿弥陀様に背く姿そのものです。
阿弥陀様の「信心(まことのこころ)」をも、自分の日頃のこころに取り込もうとするのです。

日頃のこころとは、私そのものなのです。
何をしていても離れる事はありません。

つまり、お念仏申す「私」や「行為」が「まこと」なのではないと言う事です。私自身は日常の色んな出来事に簡単に揺れ動くのです。

 

日々、お念仏申し儀式でお聖教に触れ、法座で聴聞する事で「信心(まことのこころ)」をいただき続けるという事は、この目印のない人生において迷いながら生きる私が、娑婆の縁尽きるまで「日頃のこころ」を知らせてくださるお浄土への道しるべ「法灯」を賜り続けるという事に他ならないのだと思います。

This entry was posted on 日曜日, 12月 6th, 2020 at 13:56 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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