2021年8月
私がなぜか不安なのは、頼むものが無いからではなく、
頼むものをしっかりと握っているからだ。和田稠
思えば「頼むもの」を集めようと頑張ってばかりだったのではないかと思います。
ボクシングをしていた頃は「強さ」「巧さ」「勝利」こそが「頼りになる」と思い、一生懸命それらを求めて努力していました。
試合に勝つと一時は安心するのですが、次の試合が決まるとまた不安になって練習するのです。
今の私は「健康を頼り」にしています。
仕事ができなくなるのは不安ですからね。
「元気で長生き」とか「健康寿命が大事」とかCMで流れてきます。ドキュメンタリー番組かと思ったら、健康食品のCMなんていうのがよくあります。流行ってるみたいですね。
グラフィックデザインの仕事を始めたのも生活のため、娘を大学に行かせてあげたいと思い「収入を頼り」にしているのです。そのためには頑張って営業もするし、勉強もします。
そして「家族も頼り」にしています。
家族が協力してくれているので、なんとか生活できているし、何より頑張る原動力になっています。だから家族に何かあると不安になるのです。
そんな風に、みんな頼りにしているものはたくさんありますが、全て「いつか離れなければならない」という共通点があります。ずっと変わらないものが無いんです。悲しいけれど。
「これは大事」「これは頼りになる」と思ったものを気力も体力も時間も何もかもかけて、一生懸命努力して身の回りに集めて守ろうとするのですが、全て必ず別れなければなりません。
そしてその「頼むもの」との別れは、自分の方が娑婆の縁尽きるという別れ方もあるのです。
日頃はその事も忘れて、いつまでも生きるつもりで人生の不安を必死で無くそうとしている私の姿を、仏教では「迷っている」と表現されます。
お念仏申し、教えを聞いて迷いから覚めるのならいいのですが、実は私の迷いは想像以上に深く、教えを聞いて「なるほど」と頷いたら、次はその「納得を頼り」に安心しようとします。
そしてさらに「自分の納得に合う言葉」を頼りにするあまり、違和感を覚えた言葉は受け入れ難く、聞きたくなくなります。
不安を無くし頼りになりそうなものを集めるためには、お念仏の教えをも「頼むもの」にしたり、しなかったり自分の感覚でどうにでもするのです。
それは何をやっても、不安定な自分の感覚を一歩も出ていない姿です。
残念ながら、自分の思いを出発点にしたものは一貫して頼りにはならないのです。
変わらぬお念仏の教えを何度も何度も聞かせていただき、不安定な自分を知らされながら一歩一歩歩むように生きる道が、頼りなくとも、確かな道として開かれているように思います。