2021年10月
ただ人は みな 耳なれ雀なり
蓮如上人御一代記聞書
真宗聖典に「蓮如上人御一代記聞書」というものがあり、そこには上人の日々の対話などが316ヶ条収録されています。その175番目に
「おどろかす かいこそなけれ 村雀 耳なれぬれば なるこにぞのる」此の歌を御引きありて、折々、仰せられ候う。「ただ人は、みな、耳なれ雀なり」と、仰せられしと云々
とあります。
田んぼに来る雀を追い払うために、揺れると音がなる「鳴子」を設置するものの、何度も鳴るうちに雀も慣れて、鳴子の上に乗ってしまっている様子を歌ったものを引用して、人は「耳なれ雀」だと仰ったとのことです。
先日大通寺の宮戸輪番から、これはまさに今の私たちのことではないかと教えていただきました。
コロナにしても、蔓防にしても、緊急事態宣言にしても段々と耳なれしていくのです。
毎日毎日感染者と死亡者のニュースを聞きながら、数十人前後の罹患者だと「滋賀県減ったね」などと言いいます。
マスク、手洗い、うがい、消毒、体調管理など感染予防の日々にも慣れ、ワクチンも2回接種すると「自分は大丈夫やろ」と油断してしまうのです。
そしてそれはコロナだけの話ではないでしょう。
「人間」も長くやっていると、それなりに経験も増え「ああ知っている」「わかっている」と、わずかな経験と照らし合わせて、手ですることを足でするような横着はしていないでしょうか。
何を見ても「知っている」と自分勝手な物の見方で上から裁き、人の苦労も「似た経験をした」などと評価して、「なんでやろなぁ」「大丈夫か」と寄り添うことも忘れ、横柄になってしまうのです。
教えを聞いても同じこと。
信心のひととおりをばわれこころえがおのよしにて、なにごとを聴聞するにも、そのこととばかりおもいて、耳へもしかしかとも入(い)らず(御文2帖目第5通・聖典783頁)
と蓮如上人が仰るように、どの教えを聞いても「知っている」「あぁこの話」あるいは、「解釈が甘い」「勉強不足」として、むしろ話者の良し悪しを評価し、「我が事」だと聞けなくなるのです。
何事も「慣れる事」は大切かもしれませんが、慣れは「こういうもんや」と答えを掴んだ姿でもあります。
その「慣れ」はややもすれば大切なことを見失ったり、壊したりすることがあるのです。
そしていつでも壊す主体は、壊すつもりなど毛頭ない私自身です。
今年も報恩講(11月13日、14日)で一緒にお念仏申し、教えを聞き、我が身を確かめたいと思います。