2021年11月
仏教は「仏道」であり、「仏道」は「道」です。
「道」は歩かなくては「道」ではありません。
「あそこに道があるわい」と 眺めているだけでは意味がないのです。
小山一行
報恩講の準備をしていて気が付いたのですが、毎年お内仏におかけしていた打敷は大正11(1922)年に厳修された宗祖親鸞聖人650回御遠忌を記念して仕立てられたものでした。
コロナの影響で2年も延期になった御遠忌ですが、その事で奇しくも丁度100年後に750回御遠忌をお勤めすることとなりました。
今回の御遠忌に向けて、みんなで協力しあって本堂や仏具の修復・新調をしただけでなく、数々のご寄進によって、法要をお迎えする用意が整いつつあります。
縁あってここの住職のお役目を賜った訳ですが、改めて今より前の住職や坊守、ご門徒の皆様方が連綿と修復や新調を繰り返して、今日のわたしたちまでお伝えくださったのだと感じました。
また、それと同時に今の私たちがこれからの人のために何を残していくのか、これもまた大きな課題だと感じました。
今は私が住職というお役目を賜っており、縁ある皆様とお寺をお預かりしておりますが、私でなければならない理由などないのです。
たまたま私であっただけなのです。
ただ、たまたまだからといい加減にやり過ごしていい訳ではありません。それは住職や坊守だけでなく、ご門徒さんお一人おひとりも同じ事です。
この16年、その「たまたま」からどれほどのお育てをいただいてきたことか。本当に有難いことです。
たまたま大切に相続するのも人。たまたま壊すのも人。
風が吹いたら桶屋が…と言いますが、因縁果の道理から外れることのない私たちは、たまたまの「私一人くらい」でも影響してしまうのです。
お寺というのは立派に整えられた伽藍だけがあっても、それは本当の意味で相続した事にはならないのだと思います。
例えば学校の運営が大切か、または学問を通して営まれる先生と生徒の歩みが大切かというように、お寺の存続が大切か、それともお念仏の教えを通して集い語るみんなの歩みのどちらが大切か。
私たち一人ひとりがどう生きたのかは、目に見える姿形だけが伝わる訳ではないと思います。その背中こそが全てを伝え影響を及ぼし、その影響を受けた後の人が判断することになるでしょう。
結果からしか判断できないことですが、今受けているお伝えを大切に、それぞれの生活の現場を大切にしながら、共に教えを聞き、この道を歩みましょう。