2022年3月

和とは不和のかなしみなり 曽我量深

 

先月末からのロシアとウクライナの戦争が激化し、世界全体にも影響を与えています。

 

『他者の現在を思いやること、それは分からないから思いやるんであって、理解できるから思いやるのではない。』とは鷲田清一氏の言葉ですが、ロシアにはロシアの、ウクライナにはウクライナの、自らの行動を正当化する理由があるようですね。
しかし意見の異なる相手は排除対象だと言わんばかりに、武力に訴える行為は全くもって愚行としか言いようがありません。早期終息を強く願います。

 

対話が成立しないと、意見の異なる人とも共に生きていると言う「事実」を見失いがちです。
「私」が私一人で存在しているわけではないように、あらゆる存在は、そのものだけで存在しているわけではないのです。しかし理屈ではそうではないとわかっていても、「私」の眼では世の中は「正しい(好き)」と「間違っている(嫌い)」の2種類にしか見えません。

 

「私」は厄介です。
「私」を中心に世界を見ると、共に生きるあらゆる存在、あらゆる事象を有害と無害とに分けてしまいます。
つまり争いの元は「私」です。

 

「私」を全く離れて生きることはできませんが、「私」を掴んで離さない私に「諸法無我」と世界の本当の姿を伝えてくださる仏様の教えをたよりに生きようとする「道」が、改めて大切だと感じています。

 

それは決して「私」の思いを肯定し、補強する耳障りのいい言葉をたよりとすることではないと思います。
「私」が納得できる「答え」を求めて教えを聞くのではなく、「それでいいのか?」と教えの方からの問いかけに「応え」ることが「教えをたよりに生きる」ということだと思います。

 

三重県の池田勇諦氏は『聞法とは私の「考え」の物差しが教えによって問い返されること』とおっしゃいます。

 

聞き続けることで確かな存在になったり、正しい判断ができるようになるわけではありませんが、「私」の思いよりも仏様の呼びかけ(お念仏の教え)に応えて生きようとした時、意見の異なる他者と互いに責め合う私たちが、共にその「道」に救われていくということがあるのではないでしょうか。

This entry was posted on 木曜日, 3月 17th, 2022 at 09:56 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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