2022年6月
仏に出遇うということは
仏に背きつづけている私に出遇うということです。 藤元正樹
「帰国子女のボクサー崩れの若造に何ができる」
就職して間もない頃に言われた言葉です。
お寺の世界を知らなかった私は、先に歩む8歳上の兄と比較される事も多く、宗門の大学を卒業し、宗門の人間関係の中で仕事をしている方々に対して引け目を感じている時期がありました。
勤務先ではご門徒のお宅にお参りに行く事が多く、お寺の法要では多くの本山関係者も出仕くださるので、まずは儀式をしっかり勉強しないといけないと思いました。
兄や本山に勤める親戚など、色んな先生のところに足を運び、教えを乞いました。
そして、そのうちそれなりに評価をいただくと、おかしな事が起こります。
評価し、比較する側に回るのです。
その事に気付かせてくださったのは、法座を大切に開き続けておられる諸先輩方でした。
儀式も大切だけれども、その意味や意義を仏様の教えに訪ねて行く歩みの重要性を知らされ、また足を運び、教えを乞いました。
でもまたおかしな事が起こります。
教えを聞いても、自分の聞く力は不問にして「このお話はいい」「今日はいまいち」と評価する心が起こってくるのです。
儀式や教えを聞く事を通して出遇ったのは、仏様や仏様の教えよりも、自分で掴んだ何かを頼ろうとする、私自身の自力根性の深さでした。
それは仏様を疑い背く姿そのものなのです。
日頃の人間関係や、教えの言葉に出遇った時も同じ事です。
「頼りになる」「大切だ」「わかった」と思ったものに縛られて、そうでないと思うものとの分断を生み出すのです。
立場や人に囚われ、頷いた教えの言葉に囚われ、握りしめた狭い世界観に閉じこもり、他と比べて懸命に自分の正しさに執着します。
どれほど大切な事であっても執着の対象となった途端、厄介でしかありません。
ついにその暗く気忙しい区別する心から解放される事なく日々が空過してしまうのです。
誰しも何か(誰か)を頼りにして生きているのだと思いますが、変化していくものにすがるよりも、変わらぬ仏様と仏様のお念仏の教えを依り処として生きようと勧めるのが浄土教です。
「仏に背き続ける私に出遇う」とは、仏様に手を合わせながら、実は少しも仏様を依り処とせず、むしろ仏様の教えを「わかった自分」になって救われようとして分断を生む、自分でも気が付かない自分自身の暗さに出遇う事だと思います。
自分の暗さに出遇うことで初めて仏様(光)の存在を知るのです。
それでもすぐに囚われて再び背いてしまう私だからこそ、生涯いつでも何度でもお念仏申し、仏様の教えを聞き続け、囚われの闇から解放され続ける道を生きるのです。