2022年7月
雑行を棄てて本願に帰す 教行信証 「化身土巻」真宗聖典399頁
「雑行」とは我が力、自分の努力などを頼りとすることで、「正行」(お念仏の行)に対して言われる言葉です。
親鸞聖人は9歳から比叡山で一生懸命修行されましたが、29歳で法然上人の本願他力の浄土の教えに帰依されました。言葉にしてしまえばこれだけの事ですが、20年間の努力を放棄するのは並大抵のことではなかったことでしょう。
私は長浜に来て約17年です。長浜別院での勤務年数も同じです。
別院のお誘いを受けた理由は、住職として生きる上でこれ以上理解を得られる職場はないと思ったからです。
また、継続して日々きちんと勤行することで、儀式作法のあらゆることが身に付きます。さらに、聴聞の機会も増えます。
常に仏法に関することが身の回りにあることで、色んな物事が教えを通して見せられ、考えさせられる環境は大変ありがたいのです。
ところが17年経った私は、果たして本当に本願の教えに帰していると言えるか怪しいのです。
数年に一度、他業種への転職のお話を頂戴します。毎回待遇も良く有難いお話です。収入が増えれば生活は楽になるでしょう。それでも毎回悩みます。
今まで通りにお寺のことができるのか不安になるのです。儀式もそう、聴聞もそう。
「浄土真宗の教えは、どのような生活をしていても聞ける」「その生活全体が教えを聞くご縁となる」と言いながら、今までよりも仏法に触れる時間が減るのでは、と不安になってしまいます。
ところがこの不安の正体は、実は自分が「今まで頑張ってやってきた」という苦労や努力、経験が手放せずに変化を恐れているだけなのかもしれないと思うのです。つまり、「雑行」です。手立てが目的化して、帰すべきお念仏に帰せず、棄てるべき雑行に執着している姿そのものでしょう。
自分でも気がつかないうちに、仏法を利用して我が努力を肯定してしまうのです。それは仏法を歪め「雑行化」しているのと同じです。そして、「これでよし」「今までやってきた」という思いに座り込み安心してしまっている姿でもあります。
その証拠に、どれほど儀式や聴聞を重ねても、ちょっと揺さぶられると本願に帰すどころか、雑行に帰す自分の脆さが露呈します。
『浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし』
とは宗祖が晩年に詠まれたご和讃ですが、「本願に帰す」るとは、お念仏の教えに導かれながら、雑行に執着する「虚仮不実」の私に出会い続けて生きるということなのかもしれませんね。