2022年10月 / 報恩講・秋季永代経のご案内
宗教の問題は煩悩でなく、
分別から人間を解放することになる。 安田理深
この言葉には続きがあります。
「分別というものが人間の主体性を奪っている。煩悩が奪っていると、一応いえるけれども、さらに再応考えれば分別が奪っている。」
30代前半、自分がどうしていたらいいのかよくわからず、何だかもがいていたような時期がありました。
そんな時連れ合いに「あなた一生懸命誰かに合わせようと無理してない?」と周囲の「正解」に合わせようと必死だった自分の姿を言い当てられ、ハッとさせられたことがあります。
実は自分のことは自分が一番わかっているようで、一旦「こうした方がいい」という「分別」を掴むと、認知バイアスがかかり「それ」以外見えなくなります。
またある時は、大きな行事の決定事項が何度も何度も変更になって全く仕事が追い付かない中、それとは別にチームでやるような仕事を「なんとか一人でやってくれないか」という話になり、職場でも家でも常にパソコンと向き合い、永遠に終わらないんじゃないかと思う作業と向き合っていました。
そんな大変な時期にある日急に腰が痛くなり、徐々に身動きが取れなくなって、麻酔も効かず他の薬も効かず、10日間ほど安静にすることを余儀なくされたことがありました。
気質的な原因は不明でストレス性のものだったそうですが、実は「しなければいけない事に励んでいるだけ」のつもりでしたから、ストレスが原因だとはにわかに信じられませんでした。
「分別のある子」、「分別のある大人」という言葉があります。しかし頼りになるはずの分別によって逆に苦しんだり、知らず知らず自分や誰かを追い込んだりすることがあるのです。
それは自分で経験して獲得した「分別」のようで、実は何か過去の心地よくない記憶が底にあって、ある程度社会生活を快適に営むために大切な「正しさ」や「正しい大人・社会人」という、物事を分別・判断する「枠」を教えられ、自分や周囲を規定してきたに過ぎないのではないかと思うのです。
「枠」は「惑」に通じると教えられます。
迷いは「どうしたらいいのかわからない」状況ですが、惑いは「こうでないとあかん。こうなるはずや」というルールや答えに縛られた状況です。
自分の中の「分別」できる「枠(答え)」が増えるほど、そのことを除けて物事を考えることができなくなります。
行き詰まったり進路が狭まってしまう時、思えばいつも私の思いが道を閉ざしていたのでした。
そして悲しいことに、苦しんで手に入れた大切な「分別」は、時代や状況と共に変化し、いつか「過去の常識」に変わり果てることもよくある話です。
来月は報恩講です。日常の忙しさから一旦立ち止まって仏前に詣し、お念仏申し教えを聞き、共に判断に迷い分別に惑う、自分自身の眼を確かめたいと思います。是非ともお参りください。
報恩講
◎11月12日(土)
13時30分 逮夜
御俗姓 住職
ご法話 玄照寺 瓜生 崇 師 2席
18時 御初夜(お取越しは内勤めにします)
御伝鈔 住職
ご法話 玄照寺 瓜生 崇 師 1席
◎11月13日(日)
7時30分 晨朝
朝御講(御斎)今年は中止いたします。
10時 日中
ご法話 玄照寺 瓜生 崇 師 2席
秋季永代経
13時30分
住職挨拶
以 上