2023年1月
自分は間違っていない 正しいことを言っている
というときほど危ないのです。 一楽 真 氏
「これからのお寺は大丈夫か」よく尋ねられる質問です。
正直わかりません。
また「寺院」という共同体が消滅する可能性も否定できません。
ただ「仏様のはたらき」は決してなくならないと思います。
随分前から納骨や本堂でのお葬儀について相談させていただいてきました。
納骨志等を将来の修復整備に向けて、門徒会計に積み立てる計画です。
ただこれは伽藍の維持管理の一助となるだけで、問題はもっと他にもあるように思います。
寺の存続が大切か、お念仏の教えを通して集い語る人の歩みが大切か。
学校に例えるなら、学校運営が大切か、学問を通して営まれる先生や生徒、関係者一同の歩みが大切かというようなことです。
どちらも大切ではないとは言い切れませんが、一歩間違えると進むべき道を見失いかねません。
「願い」を確かめずに、テクニックや方法論に走ると、必ず誰かが置いてけぼりにされるのだと思います。
これは国家でも、会社でも、家庭でも、どんな共同体にも言えることだと思います。
みんながどのような場所にしていきたいのかという願いを共有することがまず先だと思います。
お寺でいえば、「願い」や、そのもととなる教えを表現する「法座」や「儀式」を大切にするのであって、住職や坊守など特定の「誰か」を中心にするのがお寺ではないのです。
その共同体で声の大きい「誰か」が認められると、必ず意見の違う誰かが傷つき、置いてけぼりにされ、それ以上そこには居辛くなるのです。
それが本当に創立時に願われた姿だったのでしょうか。
お寺のことでも地域のことでも、会社や学校のことでも、大切に守られてきた共同体を壊すのは、必ずしもそれに不慣れな方だけではないでしょう。
もちろん軽率に変化させたり辞めてしまうのは論外ですが、「伝統を心得た」という確信ある在り方にも存続を危ぶませる作用があるのではないでしょうか。
もし共同体において誰かが居辛くなるようなことがあるのなら、それは共同体創立の「願い」に立ち返って見直すべきタイミングでしょう。
どれほど教えを聞いていても、衣を着て儀式を執行していても、どれほど一生懸命に携わっていたとしても、「これでよし」と我が納得に安住する姿は、考えることを辞めてしまっているのと大差ありません。
一生涯教えに導かれなければ、「正しい自分」を迷信し、愚かな他者、間違いだらけの社会を自分の眼前に生み出し、正しいはずなのに、互いに苦しまなければならなくなってしまいます。
だからこそ本年もお念仏申し、教えを聞き、一緒に言葉にすることで考えさせてください。どうぞよろしくお願いいたします。