2011年5月
世間に抱く関心は
必ず自己中心の善悪による関心である
信國 淳
『みんなの為を思ってだ』
『あなたの為でしょ』
と言っても、やはり私のところから見て、みんな(あなた)の為だろうと私が思う事を私の出来る範囲でしているにすぎない。必ずしもする側とされる側の意見は一致しない。
全国で被災者支援が続く中、被災地(岩手県)在住の先輩からこんな事を聞きました。
一方的な支援は、被災された方々の心を苦しめる事になっている実情があります。人は誰でも“お互いさま”“ありがとう”と双方が言いあえることを願い、それが健全な環境です。被災者も支援者も、どっちであっても“必要とされたい”という気持ちで生きている。今、その場づくりを、わが町に避難なさっている方々と共に考え、行動しているところです。
藤場俊基先生の『無明とは確信の感覚である』という言葉を思い出しました。
人は基本的に善なのでしょう。善なる心をもっているのだと思います。
ただ、時々その善なる私がどこに立ってものを見ているのかを見失う事があります。正しい事・善意なのだから、と。
お子さんなり誰かを注意する時に、言い過ぎた経験はないでしょうか。
私はあります。正義はあまり振り返る事がありません。見直す事も忘れがちです。すると、相手に添い続けているつもりで、微妙にずれてきても気付きにくいものです。
だから、人間関係において『なんでなんや』とか『分かってくれない』という愚痴は後を絶たないのでしょう。
『善・正義』によって安心すると、正しいのだから考える事をやめてしまうのでしょうね。そして、ずれてくると周囲に愚痴をこぼしながら同意を求め、自分が間違っていないと確認したがる。
やはり人は善でいたいのでしょう。しかし、善でいたいがあまり、自分以外の他者を悪に祀り上げてしまうこともしばしば。しかもそれには気付かない。だって自分は正しいのだから。