2012年4月
困ったら困るとよいのです それを困るまいと 我を張るから問題なのです
高光かちよ
なかなか困った事、嫌な事、都合が悪い事というのは素直に受けていけません。
苦悩の種というのは、避けては通れない、自分自身の身の事実の事ではあるのですが、なんとか避けたくなります。
でも、私たちは苦悩が嫌いではないようです。
先日、ある方のご法話で…
「もし、私が楽して生きていると言ったら、誰も聞かないでしょう。でも、私がとても苦労をして生きてきたと言うと、皆さんよく聞いて下さる」
…という様な事をお話しなさっておいででした。
なるほどな。と思いましたが、もうひとつ。
あの時辛かった、という経験が今や宝になってはいないでしょうか。
それがあったればこそ、今があると思いませんか。
辛い事や、嫌いな人というのは、自分ではなかなか引き受ける事ができませんが、引き受けさせていただけるようにはなる。
水島見一先生にいただいた本に、ある農家の方の実話がありました。
その方は農作業がとてもお上手で、その為毎年西瓜泥棒に悩まされていたそうです。
そこで、その対策にしっかりと人が入る隙のない垣をつくろうと、とくに念入りに作られて、出来上がったら自分が出られなかったという笑い話のような話がありました。
その本には続きがあり、それは私たちもそういう生き方をしているという事でした。自分が間違いないという思いがあり、耳の痛い話は嫌いです。どうしても相手が受け入れにくいのです。また苦悩するのも嫌なものです。
人は他人を受け入れないようにすると、逆に自分がそこから出られなくなって、とても窮屈な生き方になるという話でした。
苦悩の源が他者や状況だけではなく、実はそれを受け入れまいと踏ん張っている自分の「垣」が自分をそこに閉じ込め、四六時中、事あるごとに思い出させ、暗い気持ちにさせていたのだと気付いた時、その「垣」が意味をなさなくなり、苦悩を引き受けていけるようになるのだと思います。
仏法は決して私の苦悩を解消する為の道具でも、私を良い人間、ましな人間にする為の自己啓発的なものではなく、私の頑なな心や、都合のいい事しか聞きたくない耳の風通しをよくしてくれるのであって、そこから他力に感謝し、力強く自力を尽くしていけるのではないかと思います。