2012年7月
徒に不満をいうのは 身の程をしらぬ 罰である
曽我量深
不満…十分に満たされていないと思うこと。満足しないこと。また、そのさま。そのような気持ちや心のわだかまりをもいう。(大辞林)
これは先月の続きになりそうですね。
人間というものは不可思議なもので大事に慈しんで育てればよいかというと必ずしもそうではなく、「かしこいな。かしこいな」とちやほやすると、あほのくせに自分はかしこいと思い込む自信満々のあほとなって世間に迷惑を及ぼす。
ところが、「あほぼけかす」「ひょっと」「へげたれ」などと罵倒されて育つと、己の身の程を弁(わきま)えるのと、なにくそ、と思う気持ちがちょうどよい具合にブレンドされて世間の役に立つ人間になる。
熊太郎は、ことあるごとに、「かしこいな」と言われ、ちょっと紙にいたずら書きをしただけで、「字の稽古をしてえらいな」とほめそやされる、茶碗を割ると、「活発な」と褒められるなどして成長したので、十やそこらでとてつもなく生意気な餓鬼に成り果てていた。
町田康「告白」より抜粋
この頃の熊太郎のような気質は、誰しも内包しているものだと思います。
少しでも上手くいくと、すぐに調子に乗る。上手くいかないと、置かれた状況を恨み、時として他人に嫉妬する。
褒められたり、上手くいったりした経験に囚われてしまうのでしょう。
人は人から認められる事で、はじめて自分の居場所を与えられた気がします。しかし、一旦認められたと感じたら、たまたま与えられた(と感じた)その居場所を何としてでも守りたくなる。なんとも人間は不自由でややこしい。
自分が負け組だとか、生き方が下手だとか言うのも、人より上手く生きたい、優越感に浸りたい事の裏返しではないですか。状況次第では劣等感も湧いてこないでしょう。やっぱりややこしい。
しかし、「人間はややこしい」と言っている自分の視座はどこでしょうか。ややこしい根性を抱えた自分という生き物がいる事を客観視して、よく分かっている気になっています。
悩み、迷うという事は、自分がどこにいて、どこに向かっているのか分かっていない証拠であるはずなのに、その悩み、迷う人間である自分を理解している気になっています。
仏法聴聞して、自分が抱える悩みや苦手な他人を受け止められるようになったり、自分の悪い所を知ったりして、上手く生きようとする事と、『信心深い』と言う事は別物だと思います。それは既に仏法ではなく、もはや自己啓発系のそれであり、宗教だと言う事すら難しいでしょう。
でも分かりたい、掴みたい、掴もうとする事がやめられない。
お念仏の教えも自分の視点に取り込みたい。そして盤石な自己を確立して、迷いや苦悩から解放されたい。だから、仏法聴聞しても、分かるか分からんかに終始する。または無理やりな解釈をして、分かった事とする。
掴んだところで、掴んだ自分は迷いの自分のままなのに。そんな私の歩みは、掴んだと思ったところから、以前とは違う迷い方をします。それこそ “不満” の連鎖でしょう。
「そうだったのか」と掴んだはずなのに、迷いや悩みから解放された事がないという事は『仏法は掴むものではない』という事ではないでしょうか。
どこまでいっても、教えに照らされて、光そのものになろうとしている私の影を見せてもらう。
つまり、頭を下げるか下げないかと言った、私の都合でどうにかなるような質のものではなく『そうでした』と認めざるをえないくらいに、自分のあり方(立ち位置)が明らかになり、頭が下がる思いをさせていただく他なく、いくら掴んだつもりになって再び迷ったとしても、ことあるごとに、また “徒に” 迷っていたのだと立ち返らせていただく事が救いなのかもしれないと思います。
同時にそれが、 “身の程” を明らかにするハタラキと言えるのかもしれません。