2012年12月
仏道をならうというは、自己をならうなり。
道元
自己をならうといっても、学んで知るというよりは、思いもよらないタイミングで、思いもよらないカタチで知らされるのではないかと思います。
私は仏法を聴聞すると、頭の中で自分の思考に合致する仏教の言葉を探し、理解を深め、歩みを進めているような気になっている事がよくあります。
ですから、どこかで自分が良く分かった人間=凡夫ではない。または同じ凡夫よりは少しまし。としてしまい、次第に自分の影は見えにくくなり、他者の影ばかりが見え始めます。しかも、その時には、そんな意識はありません。
そうなると、無意識であっても、一段上から他者や物事を見てしまいます。
いつも、自分が正しい者、または自分の思考が正常だとして、そうではない他者を許せずにいら立ちを覚え、苦しみます。やはり、その時にも、そんな意識はありません。何だかやるせない気分に覆われているだけです。
でありながら、自分自身が思い通りにならない自分が、その他者を思い通りにしようとして、考えを改めさせようとしたり、黙らせようとしたりして、互いに傷つけあいます。もちろん、無意識です。
つまり、それは仏法に触れる前も後も、同じ事をしているのです。
そうして、息苦しくなり、行き詰ったときに、どうしたわけか、忘れていた仏教の教えが私の有様を的確に言い当ててくださいます。
それは決して、頭で分かって『なるほど』と言っていたものではなく、聞いた事のある言葉であったり、分かったつもりになっていた言葉だったりします。ですから、いつも私の想像しない方から突然きます。ハッとして、私の身が反応してしまうような感覚です。
そして『賢いつもりであったな』『愚かであったな』と思わされます。
少しばかり聴聞して、自分が光(正しい者)であるかの如く考え、他者の影が見えるとばかりに振舞っていた私は、教えに照らされる事で、ようやく自分自身の影を見る事ができるのです。
自分の影を自分にも他者にもひた隠しにしていた私であるはずなのに、教えに自分の影を見せられた事で、ほっとしている私がいます。虚勢を張る必要もなく、絶対正しいわけでもなく、立派な私でもない、本当の私に戻してもらった瞬間だと言ってもいいと思います。
同時に、それでも同じ時代を生き、関わってくださっている他者に対して『おおきに』『ありがとう』と素直に思う事ができ、同時にその他者も同じ身を生きているのだと知り、『あなたもですか』『お互いさんやね』という“共に”の世界観に触れさせていただけます。
これは、私の中から出てくるような視座ではなかったと思います。
その証拠に、私はその事をすぐに忘れ、また同じ過ちを犯してしまいます。
お念仏の教え以外で、“共に”の世界観に立ち返らせていただく事が出来ないようです。しかも、取り込む事も出来ない。
浄土宗の人は、愚者になりて往生をとぐ(法然上人)と言われますが、私が不退転なのではなく、先人の歩まれた、その『道』が不退転なのだという師の言葉が、あたたかく、重みをもって響いてきます。
私もまた、この『道』をいきたい。