2013年4月
念仏する身が辛抱するに非ず、相手の辛抱が見ゆるのである
大河内了悟
本当にそうやなとしみじみ感じました。
いつもは私が辛抱したってる、位に思っていますが、実は相手も辛抱してくれているんですね。
日頃、職場や家庭において意見が食い違う事は、ままありますよね。
意見が食い違うという段階で、すでに別の世界観であるという事がわかりそうなもんなのですが、なぜか自分が見ているモノと、他の方が見ているモノは同じであると思い込みます。ですから、相手の解釈が変だとしか思いません。
思い込むだけならまだしも、それが正しいと錯覚します。そして正義であるとすら考えます。
ついには、考えが合うと“思う”人とだけ寄りかたまり、そうでないと“思う”人は嫌います。避けます。見下します。
大体言い争う時には3つくらいの事しか言っていないのではないでしょうか。
その① 自分が正しい
その② 相手が間違っている
その③ (自分が思う)正しい認識を持たせる
(相手の考えを改めさせようとする)
これを一言で言い表すなら「べき」と言えないでしょうか。
「べき」は息苦しい。威勢も良く、正しいと“思う”から「べき」なんでしょうけど。
人は誰かに「べき」と言う時、大抵憤りを感じているのかもしれませんね。
だから、自分が辛抱せなあかんのですね。そして、相手を見下し、アホめと思わなあかんのでしょう。そうしないとやってられないのと違うでしょうか。
私たちは、ひとつの事柄でも見る角度によって全くカタチが変わってしまうものを見て、自分の見ているモノが全てだと思い込み、それが正しいと主張しあっているようだと思いました。
事柄によっては、その時その時で正誤はあるかもしれませんが、それとて時代や状況によって変化していくのですね。
そこで一喜一憂している自分の浅はかなあり様を、なんまんだぶつの教えに知らされていく歩みがすごく大きな歩みだと感じます。
色んな事を許せずに怒りや悲しみにまみれていた原因は、私でしたと頷けた時、本当の意味で全ての人に対して『ごめんね』や『有難う』が言えるのだと思います。
聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして
他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり (正像末和讃)