2015年2月
世間法は欲が支配し、出世間法は欲を支配する
赤沼 智善
二月と言えば、節分というのが世間の風習でしょう。
多くのご家庭で「豆まき・いわし・恵方巻き」など節分をイメージする催しが行われるのではないでしょうか。
クリスマスのように宗教的行事が、多くの方の意識の中で、ある種「イベント」化した姿だといえるでしょう。
豆まきなんて、きゃあきゃあ言って楽しかったですから。
しかし楽しいとはいえ、やっている内容は「鬼は外・福は内」。
そもそも追い出しているところの鬼ってなんでしょうか。
はたまた呼び込みたい福ってなんでしょうか。
誰でもが「福」という、歴然たる「福」とは存在しうるのでしょうか。
あるいは「鬼」と言っているそれは、誰にとっても「鬼」でしょうか。
よくわからないのに、人でもモノでも何にでも私たちは福と鬼とを決めています。
家族や回りの方々からすれば、私は福でしょうか。鬼でしょうか。
もし、人によって違うのなら、状況によって変わるのなら、それは単なる見た人の「都合」でしょう。
鬼は外、福は内。
都合の良い福。都合の悪い鬼。
その正体は私の「思い通りにしたい」欲でしかないのかもしれません。
その私の欲のメガネで見た世の中を世間というのかもしれません。
もしそうならば、善くも悪くも世間は私です。
つまり理性的であるつもりの私は、実は欲の支配下にいます。
だから世間は都合と都合がぶつかり合うのでしょう。
そんな私は世間法に生きています。
このまま終わる人生であるならば、暗く空しい。
その空しさを隠すために、明るくふるまう。立派にふるまう。
それでも、やはり虚しい。
中身とは違うし、何も残らない。
出世間法に導かれながら、本当の明るさに出遇っていく他ないようです。