2016年3月
自信のあるものは謙虚である。自信のないものは傲慢である。
曽我量深
自分に自信があるというのは、自分のやってきたこと、あるいは身に付けた能力に自信があるという自己肯定感をいうことが多いと思います。
確かに何かで成果をあげたり誰かに認められたら、その時はすごくうれしいし、やってきたことが間違いではなかったと誇りに思ったりもします。
でもそんなもの一時のよろこびで、すぐに消えませんか?
何かしらを目指しているときは、進むべき方向にさほど迷いません。また、迷ったとしても前向きな悩みであり、方向は決まっています。
しかしひとたび良い評価をいただくと、それを維持しなければならない気持ちの方が大きくなり、周囲の評価が一段と気になってしまい、進むべき方向を見失いがちです。
それは誰か、あるいは何かと比べて自分がどうかという比較が前提であり、認めてくれる存在がいないと持てない自信だからでしょう。
もちろんその気持ちが向上心を生みますし、成長もさせてくれます。
でも、これは本当の自信だとは言えないのだと思います。いつか必ず行き詰まります。
なぜなら、その自信(自己肯定感)は出来る・やってきたと<感じる>自分だけを認めるので、やはり比較して、出来ない・やってきていないと<感じる>人は認めることができません。
それではどこか傲慢になるでしょうし、人間関係に影を落とす原因にもなります。
自信は欲しい。良い評価も欲しい。劣等感よりは優越感に浸りたい。
それは、こころのどこかで誰でも思うことでしょう。
しかし、曽我量深氏は「優越感の正体は 劣等感である」ともおっしゃっています。
劣等感なんていやだ。自信がないのは惨めだ。悪い評価なんていやだ。人にどう思われるか心配…そんな不安から逃げたい気持ちで歩む人生は、どこまでも不安です。
なぜなら、ご承知のとおり世間の価値や評価は、時代と共に移り変わり、世代によっても違うからです。
つまり自信の根拠が世間の評価であるならば、その安心できる場所は常に変わるということで、それはそのまま、その方向に本当の安心はないということになります。
安心できるわが家に帰るのにいつも場所が変わるのであれば、毎日どちらに向いて帰ればいいのかわからないのと同じです。「みんなが言うから」「なんとなく」では帰れる保証はどこにもありません。
そんな私に仏教は「本当の救い・確かな安心はそちらじゃないよ」と教えてくれます。
世間にいながら、世間に振り回されない、本当の世界「出世間」を教えてくれます。
世間に居ては、世間の本当の姿がわかりません。それを超えた存在から教えてもらうしかないのです。
私が損や得や、勝ちや負けや、こうせなあかん、こうでないとあかんと躍起になって目指していた方向では会えなくても、教えられて初めて出遇うことができる視座。
それは、私の中から湧いて出てくるような視座ではなかったのです。しかも、努力をして得られるような感覚でもありません。教えて(聞かせて)いただくしかないのです。
そして、その大きな世界観を本願と呼んだのではないかと思います。
本願に触れて初めて人は、いのちとして平等の大地に立つことができるのです。
それは比べる必要のない世界。優劣のない、共なるいのちの世界観です。
お互いの存在が見直され、同時に「ありがとう」と「おかげさん」にも気付かされ、さらに縁ある方も私と同じいのちを生きておられる「同朋」として出遇いなおすことができる。
それは、意味や価値を付けての自信ではなく、私が私でいて良かった(あなたがあなたでいてくれて良かった)という本当の自信であり、社会や世間の価値観という狭い視座ではなく、全てを包み込むいのち本来の世界観だと言ってもいいと思います。
しかし見せていただいた阿弥陀さんのこころは広く豊かであっても、すぐ日常の細事に振り回され、世間の評価に流され、どこか傲慢になるのが私の日頃のこころです。
だからこそ、なんまんだぶつと阿弥陀さんを念じつつ、一歩一歩私自身を確かめながら生きる日暮らしを、仏事として大切に私のところまで相続くださったのだと思います。