2016年7月
人間には、裏切ってやろうとたくらんだ裏切りより、
心弱きがゆえの裏切りのほうが多いのだ
La Rochefoucauld
実は先日facebook(フェイスブック)で次のような投稿をしました。
人は弱い
仮に無意識であっても、涙や弱さとしてよりも
それは
悪口として 愚痴として
冷たく当たることとして いじめることとして
そして、裏切りとして
表出する。
それらはすべて
エゴであり善ではない。
独善的な保身であり
実際には破滅への一本道でしかない。
でもその時、当の本人には
善であり正義にしかみえない。
すると多くの方が共感してくださいました。お一人お一人にご意見を伺ったわけではないので、どういう思いで共感してくださったのかまではわかりません。
でも、何かしら心当たりがあるのでしょうか。
そういえば、大通寺の「夏中」で兄が五怖畏(ごふい)のことを話していました。
1.不活畏(ふかつい)。食べていけるだろうかという畏(おそ)れ。
2.堕悪道畏(だあくどうい)。なんだか悪い道に堕ち込んでいくんじゃないだろうか。この先、この時代。この私たち。そういう畏れ。
3.悪名畏(あくみょうい)。人から悪い事を言われるんじゃないだろうかという畏れ。
4.死畏(しい)。死んでしまうんじゃないだろうかという畏れ。(命終畏(みょうじゅうい)ともいう)
5.大衆威徳畏(だいしゅういとくい)。みんなの前で恥をかかされるんではないだろうかという畏れ。
私たちの行動の背景には畏れがあり、普段から怖い恐ろしいと思って生活しているのだという話でした。
不安なんですよね。もちろん、私も不安です。
今のままで将来やっていけるのだろうかという不安は常にあります。経済だったり、健康だったり、挙げればきりがありません。
そんな中、不安や恐怖心から逃れる方法がわかればいいのですが、誰も知りません。
幸せになりたいと思いながら、誰もどうなったら本当に幸せで満たされるのか、知りません。どちらに向かっていけばいいのかわからないのです。
どちらに向かっていけばいいのかわからないから、様々な選択肢に直面すると、さしあたっての無難を願い、考えることを先延ばしにし、曖昧な判断を下しているのが私たちの実際のところではないでしょうか。
三国連太郎さんが次のような言葉を残しておられます。
『さしあたっての無難を願う』という小さな我執が人びとの心の中にあるために、支配権力はまことに都合よく人びとをだましうちにすることができるのです。
私たちはその心弱い部分を正当化する。合理化する。
そこに権力はつけいってきます。
人びとの心の底に巣くっている自己保身のエゴイズム、それを正当化しようとする考え方や観念を自力分別心というのです。
この自力分別を積み重ねていくと、小さな保身の思いがやがて社会全体をおおい、非人間的な深い亀裂と断層をもたらします。
いかがでしょうか。
このことばは支配権力と我々民衆というところで語られていますが、着目すべきは私たちの自己保身、小さな我執がすべての不幸を生み出す源だとおっしゃっているところであるように思います。
仏法は私の事を罪悪深重煩悩熾盛の凡夫と呼びます。
対して、私の中の小さな我執、自己保身のエゴイズムは「悪いことなんかしていない」と反論します。
しかし、悪とは何か?と問うた時、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは
「弱さから生じるすべてのものである」と言っています。
であるならば、行く先もわからないのに、自己保身のエゴイズム(煩悩熾盛)を疑問にも思わず正当化し、人や境遇と衝突しながら、のぼせ上がったり悲しんだりしている私はまさに罪悪深重であるとしか言えません。
その事実は私にとって悲しいことではありますが、同時に先達より聞かせていただいている阿弥陀さんの救いのお目当ては、まさにそんな私でもありました。
障りが障りとならず、むしろ真の智慧に向かわしめる縁となる。
有難いとしか、言いようがありません。