寛弘年間(1004~1011)に本庄寺と称する天台宗の寺院があり、権少僧都普賢がこの付近(現長浜市本庄町 西黒田地区)に立ち寄り、その奧堂に留錫(りゅうしゃく)した事に始まる。
普賢は長元7(1035)年6月、普賢山 長元寺として別に一寺を開いた。ここから長源寺の呼び名が始まったと推測される。
永正8(1511)年に、その頃の住僧であった惠信が本願寺第9代実如上人(1458~1525)に帰依し、真宗に転じた。
同11(1514)年に現在地付近に移転し、寺号を長源寺と改めた。おそらくこの頃山号を普賢山から「一谷山」と変えている。
元亀2(1571)年兵火にかかったとされる。世に言う元亀争乱に巻き込まれたと想像するのが妥当かと思われる。
さらに慶安3(1650)年頃に長浜御坊大通寺(大谷派)と長沢御坊福田寺(本願寺派)の本末論争によって、長源寺は西長源寺と東長源寺とに分かれ、東長源寺は大通寺(大谷派)につく。その当時の住職が慶運という僧侶であり、長源寺中興の祖といわれている。
また、理由は分からないが、同4(1651)年3月再び本派に帰し、現在の地に移転。いつ頃再び大谷派に転派したのかはわからない。
昭和31(1956)年住職代務者惠香(宮尾惠美子)が東長源寺を長源寺と改める。
昭和58(1983)年2月、中興の祖といわれている慶運の字をもらい、慶運山と山号を改める。
平成17(2005)年米原市上多良 紫寶山 眞廣寺次男 卓(当時大阪府枚方市、淵埋山 光善寺 当時住職•故藤原暢信師に師事)を家族共に養子として迎える。
平成18(2006)年第12代住職 (慶運を初代として12代、過去帳による。天台の頃からは27代目) を継職し、現在に至る。
※ これはあくまでもわずかに残っている資料(手書きを含む)を元に現住職が推測したものに過ぎません。詳しい方がおられましたら、是非ご一報下さい。