2017年2月

はてさて困ったことには 知っていることは何の役にも立たず 肝心のことは何も知らない

ゲーテ「ファウスト」

 

長源寺の近くでは、間も無く二十二日講(通称回り仏さん)という御仏事がお勤まりになります。

長浜に住んで丸11年が過ぎ、もはや近所のコンビニの恵方巻よりも季節感があります。

 

遡ること230年前の1788年1月30日。

ご門首が乗如上人の時に、京都では「天明の大火」と呼ばれる大火災がありご本山が焼失してしまいました。

 

再建にあたって、湖北から大勢のお同行が出向かれ、現在も真宗本廟周辺に残る詰所に寝泊まりしつつ、昼は奉仕、夜は聴聞の日々を10年もの間送られたそうです。

 

新幹線もありません。当然ちょっと帰るということもできません。

また、再建工事の重機もありません。まさに命がけです。

故郷には家族も残していますし、相当の覚悟だったことでしょう。

 

しかし乗如上人は、着工から3年後の2月22日に寿算49歳で還浄され、その遺志は逹如上人に引き継がれました。

 

着工から10年後(1798年)に、大勢のお同行のおかげで両堂再建が果たされ、乗如上人の御影も奉掛し、落慶法要が営まれました。

 

それまで先例のなかったことだそうですが、法要が終わっても別れを惜しみ、なかなか席を立たないお同行を見た逹如上人が、2幅のご寿像と御書(ご消息・お手紙)を送られたということです。

それを機に、湖北三郡(現在の長浜市、米原市)一円で「二十二日講」が組織され、爾来200年以上、各町村のご門徒宅で法義相続の御仏事が営まれています。

 

私は回り仏さんを知りませんでしたので、始めは何が回って来はるのかと心配しておりましたが、

 

「ごえんさん。これはな、門徒の祭りや。ごえんさんはお客さんやからな」

 

とご門徒さんから教えていただきながら、お手伝いをさせていただいて来ました。

 

さて、今月のことばは、ゲーテの戯曲「ファウスト」の言葉です。

知人から聞いた言葉で、肝心の戯曲の中身は知りませんが、今のままではこの人生を終える時、こんな言葉が出てくるのだろうと思いました。

 

ふと、湖北の二十二日講が組織され、連綿と伝えられて来たことを惟うと、ひとえにこの人生の空しさを超える道を問い、聞くためではなかったかと思います。

 

「人は死ねばゴミになる」という本がありましたが、最後はゴミになる人生でいいのか、どうか仏となる道を歩んで欲しい、そして人間として生きる上で、肝心要のことを聞き開いて欲しいとの先人からの願いが伝えられているように感じます。

This entry was posted on 木曜日, 2月 2nd, 2017 at 15:06 and is filed under コトバ, 徒爾綴. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

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