2017年5月
よく聞いて しっかりする身に なろうとするのが危うい
上山城守『如是我聞』より
宗教者・警察官・教育者など高潔であることを求められる「聖職者」と呼ばれる職業の人はある程度きちんとしているイメージがあるのだそうです。
そして、その職業や立場にいる人の多数が、何となくその(異なる立場の方が抱く)イメージをある程度守ろうとします。
要は格好つけるんです。笑
まぁ、そうでなくてもええ風に見られたいですよね。誰しも。
上手くいっている間はいいのですが、ひとつ歯車がくるうと、途端に息苦しくなります。理想と現実の間で、何でもない日常がしんどくなるんです。
そんな時、この今月の言葉が胸に刺さります。
今の自分はダメだから、自分が努力して積み重ねて自分を作り上げて、何者かになって、それで自分自身を受け止め、人にも認めてもらおうとするんですね。仏法聴聞まで積み重ねに利用して。
それでも、阿弥陀さんはこんな自分はダメだとはおっしゃらず、そのまま来いとおっしゃいます。
努力できる人はできるまま。できない人もできないまま。そのままです。なんまんだぶつの救いに違いはありません。
このままではあかんというのは私の方です。
あの人はまだあかんというのも私の方です。
阿弥陀さんは摂取不捨ですが、私は取捨選択しているんです。人も自分も状況も。
そうして、人生を思い通りにしよう、自分の理想像を演じようというのです。しかも、そうすることこそが正義であると思うんですよね。真面目に。
頑張ることが間違いだとは思いませんが、正しさゆえに見誤っても気づかない危うさがあります。
その証拠に行き詰まると、人や環境のせいにして、自分の都合を汲み取らない周りを責めるんです。
自分の思いと違う事に腹を立てて傷つく。その気持ちはわかりますが、それってお門違いですよね。
行き詰まっているのは他でもない自分の理想像、自分の思考なんですから。問うべきは自分です。
明石家さんまさんは『俺は絶対落ち込まないのよ。落ち込む人っていうのは、自分のことを過大評価しすぎやねん。』とおっしゃいます。
自分の努力、苦労、経験、すべて手柄にして見返りを求める私の姿こそ、過大評価そのものですね。
ありのままになれない私が、ありのままを聞かせていただく。ただそれだけなのですが、自分の手柄を手放せない私の思いこそが、人生の行先を阻み、危うくするのだと言われているように思います。